スウスウと砂漠の運び屋(仮) 【プロローグ】  真っ赤な夕日に背後から照らしだされ、少女はその姿を影絵のように変えていた。少女の顔は紫色のベールに縁取られて、大きな瞳だけが影のなかに浮かんでいる。その背後には静かな湖のように滑らかな曲線を見せる砂漠が広がり、夕日を受けて赤くその湖面を染めていた。  そのただ中に少女は立っていた。影に隠された少女の表情は幼くも、悟りを得た聖人のようにも見えた。その少女を見つめる男がいた。傍らに馬を立たせ、夕日に目を細め、寂しいような何かを諦めたような顔で少女を見つめていた。  二人の足下には漆黒の闇が口を開き、両者を分断していた。  男が口を開く。 「本当に・・・、なにか方法はないのか?」  少女は笑うように目を細めて応えた。 「あったとしても、もう時間がないわ」  少女の影絵は伸びをするように両手を延ばして跳ねた。 「もういいの! 私はだいじょーぶ!」  少女は目をさらに三日月のように細めていった。その三日月から涙がこぼれ落ちる。その涙が男を狼狽させた。 「いいか、このあと俺が絶対に復讐を・・・」 「止めて! 良いんだってば。本当に・・・」  少女は顔を両手に伏せて肩を振るわせていたが、吹っ切るように顔を上げた。大きな瞳は涙をたたえて潤んでいたが、夜空の月のような静寂さを保っていた。 「本当に、今日は楽しかったわ。今まで生きてきて一番楽しかったかも。だから、楽しく終わりましょう」  男は少女の顔を見続けることが出来ず、掛ける言葉も浮かばなかった。  少女はちらりと振り返り、地平線にほとんど沈んだ太陽を見て、ぽつりと呟いた。 「もう終わりね。・・・ありがとう。それにさようなら」  男の見ている前で少女は漆黒の闇に足を踏み入れた。 【1.運び屋と少女】  『砂漠の運び屋とは退屈との勝ち目の無い戦いを続ける者である』と言ったのは西の詩人か東の哲学者かは分からないが、砂漠を吹き渡る風に乗り運び屋たちの間に広く知れ渡った言葉だ。砂漠の運び屋たちは皆、諦めを含んだ溜息とともに同意するのだ。広い砂漠の点と点を頼まれた荷物を持って移動するのが運び屋たちの仕事だ。点を繋ぐ線である長い道中はただ広い砂漠を愛馬とともに何日も、ときには何週間も孤独に歩むことになる。だから運び屋たちは皆、独自の退屈しのぎの技に日々磨きを掛けることになる。ある者は笛や指ピアノの腕を磨き、ある者は美しい詩を吟じ、またある者はジョークや笑い話を捻るのに時間を使う(もっともそういう者の話しが面白かったためしは無いのだが)。  砂漠に点々と足跡を残しながら依頼人の村へ向かっているその男の暇の潰し方は一風変わっていた。男とその愛馬は運び屋の仕事を長く続けているが、退屈との戦い方は一向に上達しなかった。 「334、335、336、337、338! またお前の勝ちだな」  男は、眠たげな目をして黙々と歩く愛馬のたてがみを軽く撫でた。 「じゃあ次の草むらまでは何歩で行けるか、また賭けようか。俺は、そうだな250歩以上。250歩未満で行けたらおまえは累積ポイントが貯まってニンジン一本獲得だぞ!」  馬は男の言葉にわずかに耳をひらひらさせただけで、また黙々と歩く作業に戻っていった。男はため息を吐き馬に話しかけた。 「やっぱりこれを旅の間中続けるのは無理があるよなあ。また暇つぶしの手段を考えないと」  なんだか最近は暇つぶしの方法を考えるが暇つぶしになっているな、と男は思った。急になんだかおかしくなり、男は馬上でぷっと吹き出した。馬はちらりと自分の背中に心なし心配そうな目を向けた。男はその視線を手で制して言った。 「大丈夫だよ、まだ頭がおかしくなったわけじゃない。・・・でも早く次の暇つぶしの方法を考えないと――」  また、あのやっかいなモノと出会うことになる、と男は心の中で呟いた。  男は前回、アレと対峙したときのことを思い出していた。一人前の運び屋になり初仕事に行くときのことだった。男の師匠にあたる人から何度も言い聞かされていた。「砂漠を一人で渡るときは頭を空っぽにしてはいけない、必ず悪いモノが入ってくるから」という言葉を新米運び屋は軽く考えていた。  熱気が揺らめく砂漠の地平線に、ちらりと何か黒いモノが蠢いた。まずい、このままではまたあのときと同じになる、男は必死に何か別のことを考えようとしたが頭の中は空回りするだけだった。ちらちらと蠢く黒いモノは段々と大きくなっていった。  それは運び屋たちの間では良く知られたものだが、何であるかについては誰も知らなかった。それと対峙したときのことなど誰も思い出したくないし運び屋としての未熟の証しとなるので、どこでも議論されたことはなく、それゆえ名前もないモノだった。大きくなったり小さくなったり細く伸びたと思えば丸く纏まる。実際にあるものなのか幻覚なのかも分かっていない。ただそれに対峙した運び屋は酷い目に遭うのだけは確かだった。  男のほうへ黒い影が近づいてくる。それに従って暑さに慣れているはずなのに汗が噴き出し心臓が不規則なリズムを刻み始める。男は自分の手首をもう片方の手で強く掴んだ。両の手首からズキズキという痛みが這い上がってくる。目を閉じることもできず、ただソレからは逃げられないのだという諦めのみが心に広がっていった。  突然、それまで静かに歩いていた馬が身をよじり前足を振り上げて嘶いた。男はびっくりして落馬しないように馬の首にしがみついた。馬は前足を下ろすと先ほどと変わらないゆっくりとした歩調でまた歩きはじめた。男はしばらく呆然と馬の首にしがみついたまま目を閉じていた。目を開けたときには蠢く黒い影は消え、心臓の動悸も手首の痛みも治まっていた。男はため息を吐くと馬に話しかけた。 「お前にはまた借りを作っちまったな。それにしても運び屋を続けててこんなにアレに遭遇するのは俺ぐらいなもんだな。親方にまたどやされちまう」  男は痛みの退いた手首をさすり、地平線へ目をやった。もうあの黒いモノは見えない。男は懐から水筒を出し勢いよく飲むと、吹っ切るように鼻息を吹き出し愛馬に話しかけた。 「よーし! さすがに一日に二回もアレに遭遇することはないだろうが、一応用心のためにさっきの賭を続けるぞ。もう草むらは過ぎちまったからな、そうだなぁ今度はあの砂丘の頂上までの歩数を賭けるか? お前には今回だけ特別にポイント2倍にはずんでやろう!」  馬は耳をくるくると動かしただけで無反応だった。それまでと同じように眠そうな目で淡々と砂漠に足跡を刻み続けていた。  辺りがすっかり暗くなり男が愛馬に2本のニンジンを奢る羽目になった頃、男と馬はある集落に着いた。集落の周りは昼間の砂漠とは違い、ひび割れた堅い大地が広がる荒野でところどころに尖った葉を持つ植物がこびり付くように生えていた。砂はなくただ生物を拒絶する厳しさだけが大地に広がっていた。  集落はトゲのついた植物を巻き付けた木の柵で周りを囲んであり、その中には布で出来た大きなテントががいくつか立っていた。テントは所々から明かりが漏れて生活の気配を覗かせていた。集落の入り口の柵は小さく開けられていて、そのすぐそばに松明を持った老婆が立っていた。  老婆は男が近づき馬から降りるのを見届けてから言った。 「あんたが運び屋かい?」 「あぁ、あんたが依頼した運び屋だよ。まずは飯と水を貰えるかい? 仕事の話しはあとにしようや」  男は頭にかぶった白いフードと布の顔あてを取りながら言った。  伸び放題の無精ひげで老けて見えるが、男は実際のところ20代前半ぐらいだろう。背はあまり高くないががっしりとした身体を白いゆったりとした服で覆っている。黒髪と黒い瞳、日焼けした肌はこの地方の人種のように見えるが、彫りの深い顔が西洋の血が混じっていることを物語っていた。あまり見た目に気を使う人間には見えないが、両手首には細かい模様が彫り込まれている皮の腕輪を填めている。装飾品はそれだけで、男の印象とバランスが取れていないように感じられた。  老婆はその男の容姿を値踏みするようにじろじろと眺めると、無言で振り返ると柵の中に入り歩きだした。  男は馬を手綱を引きながら、老婆のあとを追って歩きだした。 「仕事の内容については聞いてるんだろうね?」  馬を厩に繋ぎ、老婆のテントの中で食事と水をもらい男が一心地ついたあと。老婆は鋭い目で男を睨み付けながら聞いた。 「人を一人、ここからオアシスの市場まで運ぶ。そいつを街にいる迎えの人間に引き合わせる。まぁ、だいたい合ってるだろ?」 「ということは詳しいことは聞いてないのかい。まったくあの商人ときたら調子の良いことばかり言いおって・・・」  老婆は天を仰いで額に手をあて嘆いた。 「おいおい、安心してくれよ。俺は仕事についてはきっちりしてるって評判なんだぜ。とりあえず詳しい仕事内容を聞かせてくれよ」  男はにやりと軽薄な笑みを浮かべて言った。  その笑みは老婆には通じず、老婆はしばらく天を仰いだまま動かなかったが、気分を切り替えるように頭を振ると男に対して話し始めた。 「いいかい、これは我が部族にとってとても大事なことなんだよ。いい加減な気持ちでやってもらっちゃ困るんだ」  男は心持ち居住まいを正し、きりっとした表情を作って答えた。 「分かってるますぜ。俺はどんな荷物も皇帝の王冠のように大事に扱って、毎回日の出のように正確に期日通りに届けている。これでも運び屋の仕事は長いんだ」  老婆は値踏みするように男を眺めていたが、あきらめをつけるようにため息をつくと話し出した。 「まぁ、いい。どっちにしろ今からじゃ代わりはきかんわい。お前の仕事を信じることにするよ。まずはあの子を呼ばなきゃ話しにならん。スウスウ!」  老婆がテントの入り口に向かって叫ぶと、すぐに小さな影が飛び込んできて老婆の隣にちょこんと座った。小さな女の子だった。長い黒髪を編み込んで一本にして後ろに垂らしている。褐色の肌をしていて大きな瞳が印象的な顔立ちだった。その瞳で男を興味津々に見つめている。 「これスウスウ、初めて会った人にはきちんと挨拶しろって言ってるだろ!」  スウスウと呼ばれた女の子はバネのようにぴょんと立ち上がると軽く膝を曲げて挨拶をした。 「はじめまして、私はスウスウって言います。お婆様のようなすごい魔術師になるのが目標です。あなたがお婆様のお師匠さんのところまで連れてってくれる運び屋さん?」  男はしばらく黙っていたが吐き出すように言った。 「参ったな。オアシス市場まで連れていくは子供だったのか」  スウスウは早口で言った。 「まぁ、私はもう12歳よ、子供じゃないわ。それにお婆様、私が行くのってお師匠さんのところじゃなかったの? オアシス市場なの?」 「やれやれ、きんきん喋るんでないよスウスウ。オアシス街には師匠の村の者が来ることになってるんだよ。部外者に村の場所を教えるわけには行かないんでね」  老婆は男に顔を向けると鋭い声で言った。 「子供だと何か問題でもあるのかね? 運び屋」 「いや・・・、問題というか、俺自身が子供が苦手なだけで」 「私、とっても大人しくしてるから大丈夫よ。ね、お婆様!」  老婆はスウスウの声を無視して言った。 「とにかく、料金分の仕事をしてもらうからね、運び屋。出発は明日だ。詳しいことは明日の朝に話そう」  男は少し言いづらそうにもじもじと座る位置を直しながら言った。 「まあ、仕事の話しは明日で良いですよ。・・・ところであんたは砂漠で長年暮らしてたんだろ」 「こんな荒れ地に追いやられる前はね。なんだい、訊きたいことがあるならさっさと言いな」 「運び屋仲間に伝わる話しで、砂漠を一人で渡るときに油断すると現れるモノがあるって話しがあるんだ。あんたなら知っているだろう? これって砂漠の悪霊か何かなのか?」  老婆はフンッと不機嫌そうに鼻息を漏らすと言った。 「砂漠に居るもので怖いのは毒蛇とサソリだけだよ。それは黒い影のようなもんだろ? 旅商人からも聞いたことがあるよ」  男は身を乗り出して質問を続けた。 「でも運び屋をやってるやつは一度はアレに遭遇しているんだぜ? 何か化け物みたいなものが砂漠に居るとしか思えないじゃないか」 「お前は街生まれか?」 「あ、あぁ、生まれは俺にも分からないが育ちは街だよ」 「だからだな」  老婆はそれだけ言うと少し黙った。男は意味が分からず老婆に問いかけた。 「だからだなってどういうことだ?」 「砂漠生まれの人間はそんなものを見ないんだよ。――砂漠には何もない。砂漠と対峙するとき、それはまるで鏡のように働く。――心の鏡だね。街で育った人間は周りにいろいろなものが有りすぎて自分の心と対面することがほとんどない。砂漠で育った人間は生まれたときから自分の心と対話することを学んでいる。だからそんなモノは見ない」  男は腕を組んで考え込んだ。それを見かねたように老婆が口を挟んだ。 「街で育った人間が一番怖いのは何だか分かるかい?」 「いや・・・、分からないな」 「自分の心の弱さを見せつけられることだよ。――お前さんの両手首に填めた腕輪で隠しているような弱さをね」  男は反射的に両手を袖の中に引っ込めた。老婆はその様子を鋭い目で見ていた。 「あ、あの私はよく分からないけど毒蛇とサソリなら退治したことあるわ! こうやって後ろの死角から棒を使って――」  スウスウは大きく身振り手振りを使って毒蛇とサソリの退治法を説明しようとしたが、それは老婆の声で遮られた。 「スウスウ、もう良いから客用のテントまで案内しておやり」  スウスウは毒蛇退治の姿勢のまま固まりちょっと戸惑った様子を見せたが、勢い良く立って男のそばまで走りよると腕を引っ張った。男は引っ張られるままにテントを後にした。  スウスウは老魔術師のテントを離れると急に早口で喋りだした。 「私、村の外から来る人と話すのって初めてなの。市場ってどんなところ? 砂漠って砂しかないって本当? この服って何で出来てるの?」  男はうんざりした顔をすると、あの婆さんはくせ者だしこのちっちゃいのはうるさいし面倒な仕事になりそうだなと心の中でつぶやいた。  出発の見送りは老婆一人だった。  すでに地平線から頭を覗かせている太陽が新鮮な日光を大地に広げ、灼熱地獄を作り始めていた。  運び屋の男は愛馬の頭をなでながら体調を見ていた。スウスウはさっきから興奮状態で老婆相手に自分の考える市場の様子を夢中で話していた。老婆はちょっとうんざりしたようすだったが「やれやれそんなことは明日に市場に着けば分かるよ」と言いながらじっとスウスウの話しに耳を傾けていた。 「なぁ婆さん、馬がちょっとヘタれているみたいなんだ。明日の朝に市場に届ける約束だったが、途中で休憩を挟まねえと馬が潰れそうだ。なんとか昼頃には着けると思うが、それで良いかい?」  老婆の表情がきっと鋭くなり、眉間のしわがさらに深くなった。 「どういうことだい。昨日、日の出のようにどうのこうの言ってたのが笑わせるね。」 「まぁ、今回は不測の事態ってことで。ほら、太陽だって日食で陰ることもあるだろ?」 「ねえ、お婆様! 私はちょっとぐらい市場で遊ぶ時間が減っても我慢するわ」 「スウスウは黙っておれ。これは大事な約束ごとなんだ。運び屋のお前さんもそんな 気の抜けた心構えでやってほしくないね。お前さんの今までの荷物はどうだか知らないが、今回は時間はきっぱり守って貰わなければ困る。スウスウの命が懸かって・・・」  老婆はしまったという顔をして思わずスウスウのほうを向いた。スウスウは不思議そうな顔をちょっぴり傾げて老婆を見返している。  運び屋が口を開いた。 「まぁまぁ、大事な弟子の人生を左右する旅だってことだよな。分かった。分かったよ、その分の料金は引かせて貰いますわ。20ガド分の砂金って約束だったけど、ええい19ガドでどうだ!」  老婆はしばらく考えていたが、何かを割り切った様子で何度も一人で頷いた。スウスウはその様子を緊張して見ていた。 「・・・明日の昼頃には着くんだね?」 「あぁ、それは確かだ」 「言っておくが、もし明日の日没までに着かなかった場合は、それ相応の罰を受けることになるよ。私が部族一の魔術師だってことは忘れてないね?」 「そんなに脅してくれなくたって大丈夫だよ。日没まで掛かってたら運び屋を続けてらんねぇからな」  男は真面目な表情で老婆のしわに隠れた目を見つめ返した。老婆はしばらく男の様子を見続けていたが、一つ頷くとスウスウに向かって話しかけた。 「スウスウ、これからしばらくわしはお前の面倒を見てやれんぞ。お師匠の村でも良い子でいられるか?」 「もちろん! 私、今までだって良い子だったつもりよ。お婆様と離れるのはちょっと心配だけど・・・。うん、でも大丈夫! 私がんばってお婆様と同じぐらい立派な魔術師になって帰ってくるわ!」  スウスウは目を輝かせて言った。老婆はその様子に、眩しそうに目を細め、なぜか悲しいような表情を見せた。 「おい運び屋、これが約束の砂金だよ。20ガド分はあるはずだ。ちゃんと確かめな。中途半端に安くして半端仕事をされても困るからね。最初の約束通り渡しとくよ」  老婆は懐から布の小袋を出すと男に投げ渡した。 「分かった。必ず無事に送り届けるよ」  男は真面目な表情で静かに言った。  男は村にやってきたときのように白いフードと布の顔あてを付けると、馬の背中になれた様子で乗った。スウスウは馬上の男に手を伸ばし、男に引っ張り上げられ、男の前に座った。朝日に照らされ、馬と馬上のでこぼこな影を、大地にのばしていた。 「それじゃ、お婆様行ってきます!」  スウスウは男の体の影からぴょこんと頭を出して振り返ると、老婆に向かっていった。老婆は何も言わず、静かに右手を上げて振っていた。  男が馬の腹を軽く蹴ると、のっそりと馬は荒野を歩き始めた。荒れ地に伸びた一人の影と、馬上の二人の影がだんだんと離れていく。一人の影はいつまでも手を振っていた。 「侘びは言わないよスウスウ、これはお前を引き取ったときから決めていたことだからな・・・」  老婆は誰に言うともなく、離れていく馬上の影に向かって呟いた。 【2.砂漠の昼と夜】  スウスウは村が地平線に消えるまで何度も後ろを振り返り手を振っていたが、村が見えなくなると何となく心細くなったのか、俯いて両手を握ったり開いたりしていた。  スウスウの両側には白い服に隠れてはいるが、老婆のものとは違う逞しい腕が二本伸びていて、そのさきの馬の手綱を握っている。両手の手首には使い込まれた皮の腕輪がはめられていた。スウスウはその腕輪をじっと見ていた。腕輪には細かな模様が打ち込まれていて、スウスウはとても綺麗だと思った。ちょっと振り返って上を見上げてみる。布の顔当ての下から無精ひげの生えたあごと喉仏の出た太い首が見えた。顔当てがちょっとゆれると無精ひげの持ち主がこちらを見下ろしていた。 「なぁ・・・、スウスウって言ったっけ、お前」 「そうよ、私はスウスウって言うの。そういえば運び屋さんの名前を聞いてなかったわ。なんだかいまさらだけど運び屋さんのお名前はなんて言うの?」 「俺の名前なんてどうでも良いよ。どうせ明日にはおさらばだ。そんな名前覚えてどうする?」 「でもでも、運び屋さんって呼んだりするのは失礼かなって私は思ったの。確かに明日のお昼にはさようならだけど、それまでは仲間じゃない?」  男はぷっと吹き出した。 「仲間ってか! 俺にとっちゃただの荷物だよ。お前は大人しくしてればそれで良いの。大丈夫だよ、荷物とは言え丁重に扱うからな」 「荷物!? 私が? それってとっても失礼だと思うわ!」  スウスウはプンとむくれると腕を組んで馬の頭越しの風景を睨んだ。  馬は相変わらずのっそりとした歩きだったが着実に前進していった。ひび割れた荒野が続いていたが、一つの緩やかな丘を越えると風景が一変した。  スウスウはその風景をみて目を見開き、あんぐりと口を開けていた。  男は横からスウスウの顔をのぞき込むように見ると、 「なんだ、砂漠は初めてだったのか? あんまり口を開けてると砂が入るしのども渇くぞ。これで頭を覆っておけ」 と言い、男が付けているのと同じ顔当てをスウスウに差し出した。  スウスウは上の空で口当ては受け取ったが、手に持ったまままん丸に開いた目であたりを見渡していた。  あたり一面の砂。それが形作るものは、水面を揺らした波のような砂丘の群れ。緩やかな砂丘の曲線が、見渡す範囲、地平線の果てまで規則的に続いている。水汲み以外の用事で村を離れたことのないスウスウには目もくらむような絶景だった。 「砂漠って、大人の人に聞いたことあったけど、本当に砂しかないのね! どこからこんなにたくさんの砂を持ってきたのかしら? すごい、すごーい!!」 「まぁ初めて見たら驚くだろうが、市場に着くまでずっとこんな風景だぞ。すぐに飽きちまうよ。さあ、口当てを付けてくれよ、付けないと口が砂でジャリジャリになるぞ。あと目に入ることもあるから目は細めに開けておけ。あんまり目を見開いてると光で目がダメになるぞ」  馬上の人間たちが何を話そうと、馬は眠そうな目をしたままのっそりたんたんと歩みを進めていた。  お昼ごろになり砂漠の気温は朝よりもずっと高くなった。男は前に座っているスウスウの頭を見ながらちょっと心配になった。さっきからずっとゆらゆらと揺れているのだ。もしかしたら慣れない砂漠で熱中症にでもなったのかと思い、スウスウの小さい肩を揺さぶった。 「おい、暑いか? 水なら十分あるからのどが渇いたら言えよ」 「ふぁ~い、のふぉはかふぁいてぬぁいの~」  スウスウは何とも気の抜けた発音で返答した。男はスウスウの顔をのぞき込むとぴったり目を閉じて眠たげな表情が見えた。 「おいおい、まだ昼だぞ。なんでそんなにおねむなんだ?」 「あー、私の村では一日の始まりは日没からなの~、お昼は暑いから家とか木陰でずっと昼寝してるの~、本当は今は寝てるはずですから~、ねむいねむいは本当なの~」 「昨日、お前が夜にやたら元気だったのはそういうことだったのか。しっかしお前はこんな暑さのなかでよく眠れるなぁ」  スウスウは目を閉じたままちょっと微笑むと 「へへ~、私の特技はどこでもすぐに眠れることなんだよ~、魔術の勉強中に眠りそうになってお婆様にいつも怒られるの~」 と言った。 「まぁ今はあの怖い婆さんもいないことだから、しっかり寝ておきな」  そのほうが俺も楽だしな、と男は心の中でつぶやいた。  スウスウは背中を男に預けると、手綱を握っている腕を枕にして眠り始めた。  馬はその間にいくつもの砂丘をたんたんとのっそりと越えていった。  罪人に罰を与えるがごとく降り注いでいた日光も盛りを越え、だんだんと夕日へと姿を変えつつあった。美しい女性の肢体のように緩やかな曲線を描く砂丘は夕日に照らされて大地に影を延ばしていた。砂漠の砂は風によって運ばれ、砂丘という彫刻の一部となる。その砂丘のひとつに、のっそりと動く小さな影が見えた。二人を載せた馬が砂丘の美しく艶やかさまで感じる斜面に蹄のあとを刻んでいた。  スウスウはいきなりパチンと目を開けると、周りの砂漠、揺れ動く馬の乗り心地に面食らった様子を見せたが、すぐに今回の旅のことを思い出した。そうだ、私はお婆様のお師匠さんの村へ行くために市場に向かっているんだ。スウスウは市場に行ったことはなかったが、村の大人やたまに来る旅商人から市場の様子を聞いたことがあった。たくさんの店があり、いろんな人たちで溢れた砂漠のオアシス。村では毎日汲みに行く必要のある水も市場では際限無くわき出ていて、それを使ったガラスの噴水が街の中心にあるらしい。美味しいもの、甘いものもたくさんあってお店ごとに色とりどりの看板を掲げて商売をしている。それが並んだ通りは、まるで宝石を散りばめた絨毯のよう。  スウスウは何だか急に市場に行くのが楽しみになって、居ても立ってもいられなくなった。 「ねぇ、運び屋さん、市場の中心にガラスの噴水があるって本当?」 「起きたのか。お前が枕代わりにしたおかげで俺の腕は棒になっちまったよ。ガラスの噴水か? あぁ、あるぞ。街の金持ちが自分の名を残すために作ったんだそうだ。俺は成金趣味が過ぎて嫌いだがね」 「本当にあるんだ! 絶対に見たい! 綺麗だろうなぁ」  スウスウはうっとりした表情でガラスの噴水を想像していた。男の台詞の後半は聞き流していたようだ。 「美味しいものもたくさんあるんでしょ? お店屋さんがたくさんあるって聞いたことあるよ!」 「<ハラペコ通り>のことかな。あそこには飯屋が嫌になるほどあるからな。あの市場は外国から来る奴も多いからいろんな料理が食えるんだ」 「あの・・・、甘いものもたくさんあるの?」  スウスウはちょっと恥ずかしそうに聞いた。 「あぁ、<ハラペコ通り>だったらいっぱいあるぞ。メロン、スイカもあるし、砂糖菓子もバカみたいにあるな。イチゴを水飴でくるんで何個か串に刺して売ってるのを見たことあるが、あれは子供に人気らしいな」 「イチゴ! 水飴! それが一緒になってるの! すごい、どっちも滅多に食べられないのに!」  スウスウは興奮のあまり男の腕に掴まると、男の顔のほうへぐいっと押しよった。  男は少しのけぞると 「まぁ、どちらにしろ金が無くちゃ何も買えないがな」 と言った。  スウスウは途端に風船の空気が抜けたように小さくなった。 「そうか・・・、お金が必要なんだよね。わたしお金持ってないし、これぐらいしかお金になりそうにないしなぁ」  スウスウは首に付けたペンダントを服の中から取り出した。ペンダントの先には丸く加工されたピンク色の石が金具に固定されていた。石の表面には髪の毛の太さほどの線で複雑な模様が細かく刻まれていた。 「それはガジール石じゃないか! それだけで1000ガドは軽く越えるぞ! 何でそんなもの持ってるんだ?」  スウスウは石を握りしめると誇らしく言った。 「これはお母さんの形見なの。お母さんは魔術師の家系だったんでお母さんのお母さんからこの石を貰ったって言ってたわ。これは砂嵐避けの魔法が掛けられた石なんだって。昔、私たちの部族が砂漠で暮らしていたときにこの石がとても役に立ったって聞いたわ。うん、やっぱり売るなんてダメ。しょうがないけど市場の食べ物はあきらめましょう」  スウスウはきっぱりと言ったが、表情が食べ物に対する未練をはっきりと物語っていた。 「母親の、形見か・・・。あの婆さんはお前の本当の婆さんじゃないのか?」 「お婆様は親戚だけど、私のおばあさんじゃないわ。お父さんが<森の民>との戦いで死んじゃって、そのあとお母さんが盗賊に村を襲われたときに死んじゃって、またそのあとにお婆様に引き取られたの」  スウスウは特に悲しい様子も見せずたんたんと言った。 「そうか、そういうもんじゃ売ってはいけないな。だがそれは凄く高価なものだってことは覚えておけよ。市場にはいろんな奴が居てその中には悪い奴も多い。ガジール石だったら無理矢理奪おうとする奴も多いだろう。そのペンダントは服の中に入れて隠しておきな」 「うん、分かった。でもそうだとすると・・・」 「何だ?」 「ここでペンダントを奪おうとしない運び屋さんはとっても良い人ね!」 「バ、バカ言うな、荷物を盗んじまったら運び屋としてやってけねえから言ってるだけだよ! 変なこと言うな」  男は明らかに照れていた。スウスウはその様子をみてクスっと笑った。  スウスウは急に前を向くと男の両手の間にある手綱を握って振り回し始めた。 「ねえ、運び屋さん、このお馬さんはなんていう名前なの?」 「・・・名前なんてねえよ、仕事するときは大抵、俺と荷物とこいつだけだからな。そしたら名前を呼ぶ必要なんてないだろう? もう忘れちまったさ」 「ふーん、じゃあお馬さんに直接聞いちゃおう」 「なんだって?」  スウスウは両手をメガホンにして馬の耳のほうへ何事か囁き掛けた。その声は今までの話し声とは違い、森のなかで微かに聞こえる小鳥の鳴き声のような儚い繊細さを持っていた。馬は少し耳を振るとブルルン、と嘶いた。 「そう、メルビっていうんだ。旅の間はよろしくね、メルビ!」  スウスウは馬のたてがみを撫でながら言った。メルビは気持ちよさそうに首を振っていた。  男はしばらくのあいだ口当ての中の口を開いたまま、驚きを押さえきれずにいた。 「・・・まいったな、魔術師の弟子ってのは伊達じゃなかったんだな」 「まぁね。動物と話すことは魔術師としての第一歩なんだから。”自然と対話し、交渉し、力を借りるのが魔術師”、なのよ」  スウスウはちょっと得意げに言った。 「最後のはお婆様のいつも言ってることだけど」  スウスウはいたずらっぽく笑うと、ちょっと舌を出した。 「ねぇ、やっぱり運び屋さんは名前を教えてくれないの?」  男はなぜか少し恥ずかしそうな顔をして答えた。 「まぁ、その、いいじゃねえか、これまでずっと運び屋で通してきたんだからよ。それよりメルビは他になんか言ってないのか?」 「うん、運び屋さんとは子馬の頃からの長いつきあいだって」 「どうやら動物と話せるのは本当らしいな・・・」  男は感心した様子を見せた。  スウスウの顔はますます得意げになった。 「運び屋さん! ちょっとの間で良いから手綱を握らせてくれない? わたし馬に乗ったことはないんだけど、メルビとなら上手に走れると思うわ。一度で良いから馬に乗って風みたいに走ってみたいと思ってたの!」  男は顔を曇らせると言った。 「駄目だ。走るなんて危ないだろう。俺は良いとしてお前が落ちたらどうする?」  スウスウはプンとして 「ちょっとぐらい良いじゃない、メルビだって歩くだけじゃつまらないと思うの。ねぇ、ちょっとだけ手綱を貸して!」  と言い、手綱を握っている男の手を引き剥がそうと、皮の腕輪を付けた男の手首を掴んで振り回した。 「おい、いい加減にしてくれよ。ったくこれだから子供は嫌なんだ・・・」  男の腕力ならスウスウに振り回されたぐらいではビクともしない。男はスウスウが諦めるまでそのままにしておこうと思い、スウスウの抗議の言葉も無視した。 「ねーー! ちょっとで良いから、走ってみたいのー! 少しだけ手綱を貸して・・・」  スウスウはズルっと滑るように体勢を崩した。男の両腕の中なので落ちることは無かったが、はっとした様子で黙り込んだ。  男が腕を見ると皮の腕輪がずれてその下にあったものを露わにしていた。  男はため息を付くと、腕輪を元の位置に戻し、言った。 「あんまりわがままは言わないでくれよ。俺は子供が苦手なんだ」  スウスウはしゅんとした様子で力無く、「うん・・・」と答えた。スウスウの脳裏にはさっき露わになった男の手首の様子が浮かんで離れなかった。  醜く歪んだ傷跡。手首を一周する傷跡がついていた。今も残る皮膚の凹凸は、おそらく骨まで達していたであろう壮絶な怪我を示していた。  スウスウは、何があったらあんなにひどい怪我をするんだろう、という思いが頭の中に渦巻いて離れなかった。  夕日と月が役割を交代して砂丘を照らしだし、男が休憩のためメルビの足を止めるまで、馬上には砂漠特有の沈黙がのし掛かり、スウスウの渦巻いた思いも消えなかった。  メルビは水と飼い葉を食べると、砂の上に座り込みすぐに眠ってしまった。スウスウはメルビが飼い葉を食べる様子を興味津々で見ていたが、メルビが眠ってしまった後は砂漠の風景をキョロキョロと見渡していた。男は薪に火を付けようとしていた。 「ちきしょう! この火打ち石、全然火が付きやしねえ!」  キョロキョロしていたスウスウはちょっとびっくりして男のほうに近づいた。 「あぁ、お前は遊んでて良いぞ。ちょっと火打ち石の調子が悪くてな、焚き火がなかなか付かねえんだ。砂漠の夜は冷えるからな、火がないと寒くて凍えることになっちまう」  スウスウはしばらく火打ち石と悪戦苦闘している男を黙ってみていたが、急ににっこりと笑顔になると男に話しかけた。 「ねえ、私が火を付けても良い?」 「あぁ? お前も火打ち石を持ってきてたのか?」 「そうじゃないの、お婆様に習った魔術を使うのよ」  スウスウは自信の滲む表情を見せたが、男は訝しげにスウスウを見つめていた。 「なぁ、別にそんなに無理しなくても良いぞ。お前が魔術師の卵だってことはメルビの名前を当てたことで分かったから」 「違うの! 本当に魔術で火が付けられるのよ! 今は月が出てるけど、昼間はお日様が出てたでしょ? だから大地にはお日様の火が溜まっているのよ! それをちょっといただくだけなの!」  男は火打ち石を叩くのに疲れたのもあって、投げやり気味に言った。 「分かった分かった。焚き火を付けるのはお前に任せるよ。それとあれだ、生け贄とかが必要なんなら止めてくれよ。ここには鶏も羊も居ねえんだからな」  スウスウはニッコリ微笑むと 「生け贄なんて必要ないわ。”魔術に必要なのは自然と交渉する言葉”なのよ。・・・これもお婆様の受け売りだけど」  と言い、薪を積んだ場所から少し離れたところに直径一メートルほどの円を砂に描き、その中を複雑な模様で埋めていった。スウスウは慣れた手つきで、30秒も掛からず模様を描き終えた。そして円の中に立つとなにやらつぶやき始めた。  男はその様子を不思議そうに見ていた。つぶやいている声の発音はメルビに話しかけたときと同じような不思議な発声だ。聞くことはできるが、言葉としては聞き取れない。外国語を聞いてるようだがそれとも違う、と男は思った。そもそも人間の言葉とは思えない。  スウスウのつぶやく声がだんだんと大きくなっていくと同時に、男は、慣れた砂漠の夜の寒さにそぐわない熱気がスウスウのほうから吹いてくるのを感じた。スウスウが目を閉じ何事か叫んで地面に手を振り下ろすと、地面に描いた円の円周上に火柱が上がった。男は驚きすぎて声も出ない。  スウスウはふーっと息を付くと男のほうを見て笑い掛けた。 「ほら、本当に火を呼び出せたでしょ?」 「あ、あぁ、それは分かったが早いとこ薪に火を付けてお前の周りの火を消さねえと、お前が丸焦げになっちまうぞ!」 「そうだ、焚き火に火を付けるんだったんだ!」  スウスウはぺろりと舌を出して照れ隠しをすると、毅然とした表情に瞬時に変わり薪のほうを指さして叫んだ。 「<火走り>!」  その途端、スウスウを円形に囲っていた火柱が途切れ、地面を這う蛇のように一本の線となり薪に向かって光のようなスピードで走った。火の蛇は薪を貫いて火を付けると運び屋のすぐとなりをすり抜けて走り、夜の砂漠に明かりをまき散らしながら背後の砂丘に消えていった。  男はすっかりビビってしまい身体がガタガタ震えそうになるのを必死に押さえていた。 「ほら、魔術で薪に火が付けられたでしょ?」  スウスウはけろりとした表情で言った。  焚き火のまわりには串に刺された干し肉が何本かさしてあり、ジュウジュウという音と香ばしい匂いを周りに発していた。スウスウはすでに焼けた干し肉の串にかぶりついている。男は気の抜けた様子で静かに山羊のミルクを飲んでいた。 「さっきの火の魔法だが・・・」  スウスウは干し肉から顔を上げると楽しそうに 「すごかったでしょ! わたし習った魔術の中であれが一番好きだなー、だって派手でかっこいいんだもん!」と言った。 「しかしその、俺はああいう魔術は初めて見たんだ。いったいどういう仕組みになってるんだ? 砂に描いてた模様は何なんだ? あと呪文みたいなのは何だ?」  スウスウは「本当は魔術師以外に教えちゃいけないんだけど・・・」と前置きしたが、明らかに得意げに話し始めた。 「まず、”自然はすべて調和のとれたもの”なの。その中で”調和を崩せるのは人間だけ”なの。あの模様は調和を崩して穴を空ける場所を決めるために描いてて、呪文て言うか”自然に語り掛ける言葉”は、ここの調和をちょっとだけ崩してって自然に頼むための言葉なのよ」 「なんというか、ああいう術を使うにはお前の「魔力」みたいなのが必要なのか?」 「うーん、別に私がやった訳じゃなくて自然が調和を崩してくれたから大地が貯めていた火を呼び出せたの。人間じゃなくて自然の力を貰っているの。だから多分その「魔力」ってのは関係ないわ。あ!、でも人間の力を使う魔術が・・・」  スウスウはしまったと言う表情で男の様子を伺った。  男の興味は止まらなかった。 「人間の力を使う魔術もあるのか? どんな魔法なんだ? 空を飛べるとか?」 「その、これはお婆様に絶対に他人に教えちゃいけないって言われてることなの。言ったら破門するって言われてるのよ! これは禁術だし、絶対言えないわ」  男は諦めなかった。今まで数々の商談をまとめてきた話術を思い出しながら語り掛けた。 「おいおい、俺が秘密を守らないような男に見えるか? 運び屋は信頼が第一だ。それにここにはあの婆さんもいないし、新しい師匠の村から使いが来るって言う市場にもまだ遠い。俺が黙っていれば大丈夫じゃないか?  それよりなにより、俺たちは旅の”仲間”じゃなかったのか? 仲間同士は信頼が大事だぜ」  スウスウは腕を組みながら大げさに首を傾げてしばらく唸っていたが、「本当に秘密だからね!」と言ってから話しを始めた。 「自然じゃなくて人間の力を使う術は禁術なの。なぜかっていうと人間の力を使っちゃうとその人間は生命力を失って死んじゃうからなの。それに人間って自然の一部なんだけどとっても変な生き物で、自然と調和しないで生きてるの。だから人間の力は自然と同じかそれ以上に強いの。”人間の力を使う術は例外なく大きな破壊をもたらす”ってお婆様も言ってたわ。  これだけ! もう答えないからね。あと絶対にひーみーつー!」  スウスウは口の前に人差し指でバッテンを作りながら言った。  男は両手を上に上げて、分かった分かったというジェスチャーをした。男はようやく初めて見た魔術に対して気持ちの整理が付き、すでに焦げ掛けている干し肉を食べ始めた。  二人とも空腹だったこともあり、しばらくは黙々と夕食を食べていた。  砂丘を青白く照らし出す月光のなか、オレンジ色の焚き火が砂丘のふもとにぽつんと輝きを発していた。その焚き火を挟んで大きな影と小さな影が両側に伸びている。  男とスウスウは夕食を済ませ、山羊のミルクを飲みながらぼうっとしていた。  男は焚き火が消えないようにときどき薪を投げ込んだり、かき回したりしていた。スウスウは両手でミルクの入ったコップを抱えながら、ゆらめく火をじっと見ていた。静かで、暖かい砂漠の夜。仄かな月明かりとそれから逃れた砂丘の漆黒の影が辺りに広がる。焚き火を囲んだ二人の空間だけが、その中に浮かび上がっていた。  砂漠の夜と暖かい焚き火は人を素直にするらしい。スウスウは焚き火を見つめながら男の腕の傷のことを思い出していた。そして意を決したように男の顔に向きなおすと言った。 「運び屋さん、ごめんなさい!」  男は面食らった様子で答えた。 「おい、何だよ出し抜けに。火の魔術には驚いたが、珍しいモノを見れて得したと俺は思っているぞ」  スウスウはぶんぶんと音がしそうなほど首を横に振った。 「そっちじゃなくて、私がメルビを走らせたいってわがまま言ったときのこと!」  男は少しうんざりしたような顔で言った。 「あぁ、それか。別に気にしなくても良いぞ。別に大したことじゃない」 「そんなことない! あんな怪我、めったなことじゃ付かないわ。それにその腕輪はそれを隠すためにしてたんでしょ? 私、悪気はなかったけど、それを無理矢理引き剥がしてしまったのよ」  スウスウは身を乗り出して勢い込んでいった。 「別に隠してたわけじゃないさ。ただそれについて聞かれるとちょっと説明が面倒なんでな。それでこの腕輪を付けてるだけだ。それにほら、なかなか良い皮細工だろ?」  男は腕輪を見せながらちょっとおどけるように答えた。  スウスウは風船が萎むように座り込み、下を向きながらじっとしていた。  焚き火の火がぱちぱちと音を立てて、二人の沈黙を強調していた。  砂丘の上を静かな風が吹いて幾粒かの砂を転がし、ぱらぱらという音をときどき鳴らしていた。  スウスウはゆっくりと顔をおこすと、とても小さな声で話し始めた。 「誰にでも、見られたくない、触れられたくない傷があると思うの・・・」  その声は昼間のはしゃいでいるときの声とはまったく違う真剣さをはらんでいた。男はちょっとびっくりしたが、口を挟まず続く言葉を待つことにした。 「私のお父さんは、私が生まれる前に<森の民>との戦で死んじゃった。だからどんな人だか知らないしどんな匂いがしたのか、どんな声だったのか知らないわ。お父さんには悪いけど、いなくて寂しいって思ったこともないし悲しいというのもよく分からない。他の大人たちは「とても勇敢で強い戦士だった」って言ってくれるけど、それってたくさんの<森の民>を戦で殺したってことじゃない? だからあんまり嬉しくなかった。<森の民>にだって奥さんや子供たちがいて、その帰りを待ってたはずだし。うーん、このことを考えるとよく分からなくなるの。私って頭が悪いから・・・」  男は口を挟んだ。 「<森の民>との戦のことは市場でも聞いたことがある。そんな細かい事情なんてお前みたいな子供が分からなくて良いんだ。頭が悪いんじゃなくて、分からなくて当たり前なんだよ。あまり深く考えるな」  スウスウは力無く笑うと話しを続けた。 「ありがとう。お父さんのことはこれでおしまい。  私はお母さん一人に育てられたんだ。お母さんはとっても強くて、水汲みも男の人の倍は運んでたし、私が毒蛇に噛まれそうになったときもあっと言う間にやってきて棒の一撃で毒蛇をやっつけてくれた。それにとっても優しくて私をいつもぎゅーって抱きしめてくれた。ちょっと苦しかったけど、お母さんの腕のなかはとても暖かかくて良い匂いがしてたから大好きだったの。  でも、私が5歳の時に村に盗賊がやってきて・・・」  スウスウは声を詰まらせて黙った。男は少し心配を滲ませていった。 「別に無理にしゃべらなくても良いからな。なんだか分からねえが、辛いことは無理に喋らなくても・・・」  スウスウは男の声を遮るように叫んだ。 「違うの! この話しをしなくちゃ本当に謝ったことにならないからしてるのよ! 運び屋さんが許してくれても、私の気が済まないわ。・・・この手のひらを見てみて」  スウスウは男のほうに左の手のひらをまっすぐに突きだした。その手のひらにはだいぶ薄く目立たなくなっているが、横一文字に切り傷が走っていた。スウスウの左手は力を入れすぎてぶるぶると震えていた。  男はその迫力に気圧されて黙り込んだ。 「この傷、この手のひらを見る度に思い出すの、あのときのこと。何で私は、どうして・・・。あのとき私がちゃんとしてれば、お母さんは死ななくても済んだかもしれないのに!」  静かな砂漠の夜にスウスウの叫び声が響きわたった。  スウスウはぎこちなく左手を下ろすと、何かを振り切るように頭を振った。 「盗賊たちがきたのは、夏の収穫が終わった後の真夜中だった。その年の収穫はあの村の場所に移住してから一番だったらしくて、みんなでお祝いをしてたそうよ。お母さんも嬉しそうで、私も何だか分からないけど楽しかった。お祝いが終わって家に帰って、いつものようにお母さんと一緒に寝たの。お腹いっぱい食べた後だったから私はすぐに寝たわ。ぐっすり眠り込んでたの。だから盗賊が村に侵入して、あちこちで悲鳴があがるまで気が付かなかった。私が起きたときにはお母さんが居なかった。あたりでは誰のものか分からない悲鳴と、家に火が付けられてパチパチと鳴っている音が溢れていて、何だか分からないけど良くないことが起こっているってことが私にも分かったわ。そんなときにお母さんが近くにいなくてとても不安になった。でもそのまま家で、布団のなかで待ってれば良かったの。お母さんはこういうときに理由もなく私を一人にしておくはずがなかったんだから」  スウスウは悔しさを噛みしめるような表情でじっと焚き火を睨み付けていた。  男が聞いた。 「・・・それで、母親を探しに行ったのか?」 「・・・うん、本当にバカだと思う。だって私が家を出るのと行き違いでお母さんは戻ってきてたんだから。お母さんは、近所の足の悪いお婆さんをうちに連れてくるために出て行ってただけだったの。そのお婆さんは病気と戦で家族を全部失ってたから、お母さんが前から心配して良く様子を見に行ってたのよ。  私はふらふらと村を歩き回ってた。おかあさーんって呼びながらね。そんな声をあげたら盗賊だって気が付くってことも分からないぐらい頭が悪かった」  スウスウは左手をぎゅっと握りしめると話しを続けた。 「お母さんはお婆さんを家に連れていったあとにすぐに私を捜しに飛び出していったらしいわ。私は相変わらずお母さんを呼びながら村をふらふら歩き回っていたの。闇夜の蛾みたいに明るいほうに吸い寄せられていったわ。その明かりは村の家に着けられた火だったんだけど。その明かりに近づいていくと刀と酒瓶を持った人影が見えた。酒を飲みながらふらふらと歩いてる盗賊だった。盗賊は私に気が付くとゆっくりと近づいて来たわ。私はお母さんを呼ぶのも忘れて突っ立っていた。すごく怖くて身が竦んでいたの。私に影が被さるぐらい盗賊が近づいて、初めてその顔が見えたわ。何の感情も感じさせない無表情な瞳。だらしなくお酒を垂らしている口。そんな人の顔は初めて見た。その盗賊は道ばたに転がってる石をほうきで払うみたいにさりげなく刀を振り上げたわ。私は自分が殺されるってことにようやく気が付いて足ががたがた震えてきたの。盗賊はまったく表情を変えずに刀を振り下ろした。私は反射的に手を挙げて、バランスを崩して尻餅をついた。私は左手が凄く熱い感じがしたのを覚えているわ。私を切り損なった盗賊は舌打ちしてからまた刀を振り上げた。  そのときだった。すごい叫び声が後ろから聞こえたの。盗賊もびっくりして刀を振り下ろす手を止めた。私が後ろを振り向くと、お母さんが叫びながら走ってきてた。地面にころがってた煉瓦を走りながら拾うとそれを振りかざしながら叫んだわ。「わたしの、娘から、はなれろぉー!」って。私は安心した。そのころの私にとってお母さんは世界一強い人だったから。お母さんはあっと言う間に私のそばにやってくると盗賊の顔に思い切り煉瓦を降り下ろしたわ。でもそのとき、盗賊の刀もお母さんの胸を貫いていたの」  スウスウは膝を立ててその間に顔を鼻まで埋めて、しばらくじっとしていた。男は静かに続きを待った。再び話し始めたとき、スウスウの声はくぐもり、泣き声を帯びたものに変わっていた。 「わ、わたしは、なんだか分からなくて胸から刀を生やしたお母さんをぼんやり見ていたわ。お母さんは後ろ向きに倒れた盗賊をしばらくじっと睨んでいたけど、動かない様子を確かめると、力が抜けたみたいに膝をついた。胸の刀の根本からゆっくり赤いシミが広がってた。お母さんは苦しそうな笑顔をわたしに向けると「スウスウ、こっちにきて」って言った。私はそんなお母さんの顔は初めて見たの。そんなお母さんが怖くて近づけなかった。「スウスウ、手から血が垂れてるわ。手のひらを見せて」お母さんが喋る度に泡のある血がお母さんの口から垂れてきて、私はもっと怖くなった。その場で手のひらをお母さんに向けて見せたわ。「よかった、大した傷じゃないわね・・・」お母さんは横向きに倒れると地面に血を吐き出した。私はようやく恐る恐るお母さんに近づいていった。お母さんは最後に吐き出すように言ったわ。「家に、戻りなさい、早く」お母さんはそれだけ言って目を閉じたわ。私はしばらくお母さんの様子を見ていたけど血だらけのお母さんには怖くて触れなかった。そのあとお母さんの言うとおりに家に走って帰った。お母さんをひとりぼっちにしたまま・・・」  スウスウは膝の上に顔を伏せて肩を震わせていた。男はじっとその様子を見ていたが静かに口を開いた。 「お前は悪くない」  スウスウはバネ仕掛けのように顔を上げると叫んだ。 「私が悪いのよ! 私がバカだったからお母さんは死んだの! しかもお母さんが死ぬときに抱きしめることも出来なかった。あんなにたくさん私を抱きしめてくれたのに。自分が助かるためにお母さんをひとりぼっちにして逃げたんだ・・・」  男はまた言った。 「お前は悪くないんだよ」  スウスウは膝に顔を伏せながら嫌々とするように首を振った。男はしばらくその様子を静かに見ていたが、ふーっとため息をつくと立ち上がり、焚き火を半周してスウスウのそばに近寄った。そこで頭をかきながら躊躇うような動きをみせたが、男は意を決したように勢いを付けるとスウスウの後ろに座り、包み込むようにスウスウを抱きしめ、頭を撫でた。スウスウはちょっとびっくりしたように身体を震わせたが、そのまま座っていた。  焚き火の周りに延びる影がひとつになった。  男はスウスウの頭を撫でながら困ったような声で語り掛けた。 「なんつーか、俺はこう言うのは苦手なんだ。なんとか泣きやんでくれねえかな? お前はまだ子供だし、そういう重いもんを抱え込むには早すぎるんだよ」  スウスウは頭を撫でられながらじっと身を堅くしていた。  男は困り顔で語り掛けを続けた。 「手首の傷だが、本当にそんな大したことじゃないんだよ。あれは手錠を外すために自分で傷つけた痕なんだ。ほら、俺のほうがバカだろ? 自分で傷つけるなんてな」  スウスウの頭がピクっと動くと少し顔を起こし、ひっくひっくと涙をしゃくりあげながら聞いた。 「て、手錠って、運び屋さん、わ、悪い人だったの?」 「俺が悪人かどうかはお天道様しか分からねえと思うが、俺と手錠は長いつき合いなんだ。俺は物心付いたときから手錠を填められててな。まぁ、その、奴隷って奴だ。俺は母親も父親も知らねえし、子供の頃はほとんど檻の中だったな。お前よりちょと下ぐらいの歳で鉱山の発掘現場に売られてな、こき使われてたよ。それで奴隷生活がほとほと嫌になって現場で尖った石を見つけて懐に忍ばせてな、夜のうちに手首を削って手錠を外して、ついでに馬も盗んで逃げ出したってわけだ。あ、ちなみにそのときの馬がメルビだな」  スウスウは男の話した内容を上手く飲み込めなくて唖然としていた。泣くことも忘れて驚いていた。 「すごい・・・けど、なんでそんなに平気でしゃべれるの?」  男はスウスウが泣き止んだのに喜んだようで、明るい声で答えた。 「こういうのは大人になるうちに上手く心を整理できるようになるんだよ。だから言っただろ? お前みたいな子供はまだそんなこと考えなくて良いんだよ。お前は悪くないし、そんなこと考えるには早すぎる」  スウスウは振り向いて男の顔を仰ぎ見た。頬の涙の痕が乾き始めている。 「・・・でも、平気でもやっぱり昼間のことは謝らなくちゃ駄目だと思ったの」  男は片眉をあげておどけた表情で応えた。 「お前はずいぶん頑固なんだな。分かったよ、お前がさっき話してくれたことも全部ひっくるめて言う。お前を許す!」  スウスウはようやく笑顔を見せた。 「分かった。ありがとう!」  男も笑顔で返した。 「分かったなら、よろしい! それじゃさっさと寝るか。お前は昼間に寝ていたから眠くないかもしれないが、横になって身体だけでも休めておかないと明日は持たないぞ」 「うん、大丈夫! 私は何時間でも眠れるのも特技なんだから!」 「それは特技とは言わないんじゃないか?」  男は苦笑して応えた。  男は毛布を二枚持ってきていたが、片方は使わずに済んだ。男が毛布を砂の上に広げて横になると、すかさず懐にスウスウが滑り込み、昼間からつかっている男の腕を枕にして眠り始めたからだ。男はちょっと苦い表情を見せたが、何もいわずにそのままにしていた。スウスウは焚き火と男の身体のあいだの暖かい空間ですぐに眠りに落ちた。スウスウは眠りに落ちる寸前にこう思った。ちょっと汗くさいけど、お父さんってこんな感じなのかな・・・。  男は疲れていたが、なかなか眠ることが出来なかった。さっきスウスウに対して言った言葉を思い返していた。 『大人になれば上手く心の整理が出来るようになる』  うそっぱちだ、男は思った。そして小さなスウスウの頭を乗せている腕の先に目をやった。焚き火に照らされた腕輪が見えた。同時にその下にある傷跡が疼くのを感じた。  男は思った。大人になれば心の整理が出来るようになるだって? 嘘を付くにもほどがあるぜ。俺はただ忘れただけだ。あの記憶を思い出さないようにあのときの絶望、ひりつくような焦燥感を必死になって箱に押し込んで鍵を掛け、見えないところに隠しただけだ。  それに比べて、男はゆっくりと呼吸で上下するスウスウの頭を見た。この子は強い。どんなに辛い過去でも、忘れずに正面から向き合っている。俺は自分を誤魔化しているだけだ。  ふいに、男の脳裏に隠したはずの記憶ががフラッシュバックのようによみがえった。  荷車の上の檻の中で初めて見た、褐色の砂漠とどこまでも蒼い空。  巨大な岩山とそこに開いた黄泉まで続くような大きな穴。その前に一列に並ばされて順番に手錠を掛けられた重い感触。  そのときはじめて感じた身体を吹き抜ける熱い風。  暗くて狭い穴の底で必死に石混じりの土を掘り返していた。  ときどき穴の中に響く落盤の轟音とそれに混じる子供の悲鳴。次は自分かもしれないという静かな絶望。  犬や猫を見るような大人たちの視線。  馬小屋より汚い小屋の中で手錠を填めたまま食べた夕食の味。酷い味だったが、食べられない奴は数日のうちに動かなくなった。  そんな日が毎日続いた。  男は頭を振ったが、よみがえる記憶を止めることができなかった。  いつものように穴を掘っているときに見つけた、鏃のように尖った黒曜石。そのときに閃いた計画。その日は金曜日で、大人たちは酒を飲んで騒いだあと、寝てしまう。手錠を全員に掛けているせいか、小屋の鍵は閉め忘れられていることが多かった。  夕食を食べたあと、疲れはてた他の子供たちはすぐに寝てしまった。ここでは友達を作る時間も余裕もなかった。座ったまま懐から取り出した黒曜石をじっと見ていた。  大人たちが騒ぐ音も収まり、あたりには闇と静寂だけが広がっていた。  自分にはそれが出来るのか、なんてことは考えなかった。ゆっくりと黒曜石を手首に当てると手錠の内側に向かって刺し入れた。鋭い傷みが走り、叫びそうになるのを歯が折れそうになるほど噛みしめることで耐えた。  いくつかの肉片が転がり、血が水たまりを作るほどになって、ようやく手錠から手を引き抜くことが出来た。  立ち上がり、小屋の扉を開けた。青白い月明かりの逆光で鉱山が巨大な影になっていた。ふらふらと馬小屋に近づいた。馬に乗ったことはない。なんとか自分でも言うことを聞いてくれる馬を選ばなくては。  子馬を馬小屋から引き出すと、その裸の背中になんとか乗ることが出来た。あたりを見渡す。相変わらず静寂と闇が続いている。大人たちの小屋にも明かりはない。  一息、吹っ切るように勢い良く息を吐き出す。そして子馬の尻に黒曜石の刃を突き立てた。子馬は暴れ、驚いて勢い良く走り出した。子馬の首に落とされないように必死でしがみついた。出血を続ける手首は感覚を失いつつあった。そして全力疾走する子馬の上で、ゆっくりと意識を失った。  男は、焚き火の揺らめく火を見つめながら、今は治ったはずの手首の傷が鋭い傷みを発するのを感じていた。俺は幸せだ、男は心の中でつぶやいた。あのとき小屋に残っていた連中に比べれば。  男は子馬の背の上で意識を失ったときと同じように、ゆっくりと目を閉じ、眠りに落ちていった。  同じ頃、スウスウの村のあるテントで火を囲んでいる老婆がいた。魔術師の老婆は何かを考えこむような顔で火を見つめていた。長い間に刻まれた深い皺の走った顔はオレンジ色の光に照らされ、その背後には背の高い影を映し出していた。 「居るかい?」  テントの外から嗄れた声がして、少し経ってから老婆と同じくらい歳をとった老人が顔を出した。 「なんだい、村長が何の用だ?」  老婆は少し不機嫌な声で応えたが、老婆の斜め前の座布団を指さすと、座るように促した。村長はニコニコとした笑顔をしながらそこに座った。 「いやー、この前は世話になったね。畑仕事をしてたらいきなり目の前が真っ暗になっちまって、ずいぶんと周りに心配を掛けたみたいだが、お前さんの魔術のおかげで治ったみたいだ」  老婆は相変わらず不機嫌そうな声のまま応えた。 「大したことじゃない。それにあんたの頭のなかの悪魔は巣を作っちまっている。完全に治すのは無理だよ」 「分かっている。自分の死に時ぐらいは分かるわい。それでな、今度の村長を倅のタムトにしようと思ってな。まぁ、はっきりいうとその根回しに来たわけだ」  老婆は少し眉を上げると、非難するように言った。 「タムト? あの青二才か? あんたの人を見る目も濁ったようだね。あの臆病者に<森の民>と戦う勇気があるのかい、また盗賊がきたときに追い返すことが出来るのかい? それに我が部族の祖先の土地を取り戻すことが出来るのかい?」  老人はやれやれといった調子に首を振ってから答えた。 「まぁ、あんたがそういうことを言うのは予想がついとった。だがわしもよくよく考えてタムトを選んだんじゃ。<森の民>、盗賊、祖先の土地。問題はどれも難問じゃ。あんたは臆病者だと言うが、タムトはあれでなかなか自分の考えをしっかり持っておる。まず<森の民>との水場争いじゃが、これはすでにタムトが中心になって<森の民>の族長と話し合いを始めている。もともと我ら部族がこの土地に移住してきたせいで水場争いになったんじゃ。<森の民>とは以前は上手く付き合っていた。時間はかかるじゃろうが、何とか話しを付ける必要がある」  老婆はフンと鼻を鳴らすと言った。 「だから臆病者だというんだ。話し合いなんぞいつまで経っても終わらんぞ。結局また争いに逆戻りするだけだわい。盗賊はあの襲撃のあと築いた砦でなんとかなるじゃろう。その砦を積み上げたのは若い奴らじゃ。そこだけはわしもあの若造たちを評価している」  村長はちょっと笑顔になると言った。 「そうかい、それは良かった。それで祖先の土地のことじゃが・・・」  老婆は村長の声を遮った。 「それについては手を打っている」  村長はぽかんと口を開けていたが、訝しげに聞き返した。 「どういうことじゃ? あの祖先の土地、「西のオアシス」はわしらが子供の頃に<渡来人>に奪われて以来、誰も近づけていないじゃないか。それにあそこはもはや<渡来人>たちの街になっている。いまさら取り返すのは無理じゃろう」  老婆は不敵な笑みを浮かべ焚き火を見つめながら言った。 「大丈夫だ。明日の日没には<渡来人>の街は砂に沈む。その上に我らの村を作ればよい」  村長はしばらく老婆を見定めるように見ていたが、あきらめるように首を振ると立ち上がりテントの出口に向かった。 「何のことか分からんが、今日はこれで退こう。また来る。タムトと村の未来についてもっと説明が必要だからな」  村長はテントの外に出たが、ふいに気になりテントの中に引き返した。 「ところでスウスウを見ないが、何処にいるんじゃ?」 【3.オアシス街と市場】  運び屋の男が目覚めるとスウスウはすでに腕の中から起き出していた。スウスウは立ち上がったメルビの鼻先を撫でていた。男は眠たげに起きあがると大きく伸びをして欠伸をした。  すでに地平線の先には太陽が頭を出し、砂漠を黒からオレンジ色へ染め上げていた。  スウスウは起きた男に気が付くとメルビの鼻を撫でながら叫ぶように言った。 「おはよう! 馬ってオシッコがすごい長いのね、さっきメルビがしてたんだけど、あんまり長いんでびっくりしちゃった!」  男は眠そうな顔で窘めた。 「そんなとこ見てやるなよ。馬にだって羞恥心はあるんだぜ。・・・たぶん。それよりお前は済ませたのか?」 「あ、そういえばまだだったわ。ちょっとしてくる!」 「大きな声で言わなくてもよろしい・・・。あー、俺もしたくなってきたな。お互いそっぽむいてれば見えないだろ。ちゃっちゃと済ませろよ」  少しの間、砂漠には珍しい水音の二重奏が響いていた。 「さぁ、さっさと片づけて出発しないと昼までに市場に着かないぜ。支度しろよ」  男は毛布を片づけながら言った。スウスウは体中を掻きながらもじもじとしていた。 「ん? どうした?」 「何だか体中がムズムズするの。砂が入っちゃったみたい」 「それじゃ良くはたいておけ。砂漠の砂は細かいからな、砂漠用の服じゃないと良く中に入っちまうんだ」 「分かった!」  スウスウは勢い良く返事をすると、スカートの裾を握るとバナナの皮を剥ぐように一瞬で服を脱ぎ去り、バタバタと服を叩き始めた。スウスウは腰に付けた小さな腰巻き以外は裸になっていた。朝日が褐色の肌を照らし、輝かせていた。  男はドギマギしながら慌てて言った。 「バ、バカ! 嫁入り前の娘が人前で裸になるやつがあるか!」 「だって運び屋さんが服を叩けって言ったんじゃない」  スウスウは特に恥ずかしげもみせず当たり前のように言った。 「着たままってことだよ! 脱ぐんならせめてあっちを向いて叩け。目の毒だ」  スウスウは少し納得の行かない顔をしていたが大人しく後ろを向いて服を叩き始めた。背中も滑らかな褐色の肌が朝日を受けて輝いていた。  男はスウスウの背中を凝視していた。正確に言うと、スウスウが後ろを振り向いたときに見えた、背中に描かれたモノを見ていた。小さな背中いっぱいに描かれた円。そのなかに卍のような模様が描かれ、さらにその隙間に複雑な幾何学模様が細かく埋まっている。男はこれほどの入れ墨を見たことが無かったし、しかもそれが子供であることなど今まで無かった。スウスウの入れ墨は見事なものだが、どこか禍々しさを感じさせるモノだった。男は見てはいけないモノを見た感じがして、すぐに視線を外し、荷物をまとめるのに専念した。      馬上のスウスウは、昨日にも増しておしゃべりになった。これから行く市場のことが気になって仕方がないらしい。男はうるさいと思いつつも、質問に答えてやっていた。馬は相変わらずのっそりと砂上に足跡を付ける作業に専念していた。  男はスウスウに背中の入れ墨について聞くことが出来なかった。目の前にいる元気で無邪気な少女、それとあのまがまがしい入れ墨とがどうしても結びつかない。男は胸に押しつけられた少女の背中を感じながら、あの入れ墨は見なかったことにしようかと考えていた。 「なにあれ! きらきらしてるわ」  ひとつの砂丘を頂上で、スウスウは先を指さしながら言った。 「あぁ、あれは砂漠の切れ目にある川だ。正午も近いからな、川面に太陽が反射して照り返してるんだろう」  馬は砂漠にナイフで切れ込みを入れたような川にだんだんと近づいていった。そこは10メートルほどの幅だが、深い谷になっていて下に川が走っていた。水量は豊富で流れが速い。その谷に大きな吊り橋が掛かっていた。  慣れた様子で男は馬を吊り橋を渡るように進めた。吊り橋は馬が歩く度にギシギシと音を立てる。スウスウは恐る恐る谷の下をのぞき込んだ。砂漠の褐色を見続けた目に眩しい水色の光が谷の遙か底を走っている。 「とってもきれいね!」 「あんまり身を乗り出すなよ。落ちたら溺れて死んじまうぞ。運が良くてもずっとさきの海までの直行便だ」  スウスウは不思議そうな顔をした。 「ねえ、「うみ」って何?」 「お前、海を知らないのか? 海ってのは、そうだな、でかい水たまりのようなところだ」 「水たまり? この川よりも広いの?」 「そうだな。お前の村よりも広い。簡単にいうと今まで歩いてきた砂漠の砂が全部水になったようなところだ」  スウスウはしばらく口をぽかんと開けたままでいた。 「砂が全部水・・・。でもそれじゃみんな溺れちゃうわ!」 「海にはでかい船ってモノがあるんだ。みんなそれに乗って遠くまで旅するんだよ」 「でも・・・」  スウスウはまた身を乗り出して川を見下ろした。水色の水面がきらきらと太陽を反射していた。 「それなら海ってとっても綺麗なところなのね。こんなにきらきらしたものが砂漠みたいに一面に広がってるなんて・・・」  スウスウは虚空を見つめながらしばらくうっとりしていたが、急に振り向くと男に聞いた。 「ねえ! 海ってここから近いの?」 「駄目だ駄目だ! 海は市場からだって丸三日は掛かるぞ。見に行く暇なんかないからな」 「なんだ、ちょっとでいいから見てみたかったのになぁ・・・」 「まあそういうな、市場はあの砂丘を越えれば見れるぞ。あそこからなら市場の全体が見れるからな」  二人を乗せた馬はゆっくりとその砂丘を上っていき、頂上付近で男の指示に従い足を止めた。 「どうだ? なかなかの絶景だろ?」  スウスウは目の前の光景に心を奪われた。オアシスを中心とした街が眼下に広がっていた。  砂丘のなだらかな下り道の先には煉瓦づくりの家が小石のように規則正しく並んでいるのが見える。市場の道には蟻のように小さな人間たちが忙しく歩き回っている。その衣装も色とりどりで、青や黄色、緑などの鮮やかな原色を使った衣装が遠くからでもよく見えた。商店にはこれまたカラフルな看板が掲げられ、市場の彩りをよりいっそう華やかにしていた。そして、道が集まる市場の中心には遠くからでもよく光るきらきらとしたガラスの噴水が大量の水を吹き上げていた。斜め上から眺めた市場は、スウスウの目にはまさに宝石箱そのもののように見えた。 「すごい! 運び屋さん、早くいこう」 「やれやれ、海に行きたいの次は市場へ早く行こうってか。でもまぁ、ようやく目的地に着いたな」  男が馬の腹を蹴ると、のっそりと馬は市場へ向かう斜面を降り始めた。  市場の裏玄関にあたる簡素な門をくぐり抜けると、サクサクっという馬の足音がカタンカタンという石畳を踏む音に変わった。裏門のすぐ近くに男の所属している「運び屋組合」がある。赤茶けた煉瓦を積んだ家の横に馬屋があり、男はスウスウを下ろすとそこへメルビをつなぎ、水と飼い葉を与え、ごくろうさんとでも言うように頭をぽんと叩いた。  男はスウスウを見ると言った。 「疲れてないか? 初めての旅だもんな」 「大丈夫! ・・・本当を言うとちょっと股ずれしちゃったみたいなんだけど、だいたい大丈夫よ。だって「旅は股ずれ」ってよく言うもんね!」  男は上を向くと呆れたように首を回した。 「俺はこれから婆さんにもらった砂金を早いところ両替してこなきゃなんねえ。あそこの事務所でおまえはちょっと待っていろ」  男は馬屋の隣の煉瓦積の建物を指さした。そのさきには四角い入り口が開いておりその上には地味な色の看板が掛かっていた。入り口は昼時の鋭い日差しときっぱり分かれた暗闇が広がっている。  男は不安げなスウスウに背を向けるとさっさと街の中心に向かって歩いて行ってしまった。スウスウは真っ暗闇が広がる運び屋組合の入り口の前まで来たが、なかなか入る勇気が湧かなかった。暗闇の中に何人かの気配を感じる。ちょっと躊躇ったがスウスウは勇気を出して中に入り、大声で挨拶をした。 「こんにちは!! 誰かいますか?」  しばらく沈黙が広がる。スウスウは屋内の闇に目が慣れる数秒間、心細い気持ちと戦っていた。  奥のほうからドスの利いた低い声が聞こえてきた。 「なんだい、お嬢ちゃん。運び屋に頼みたい荷物でもあるのかい」 「ち、ちがうの、私、運び屋さんにここで待つように言われて、それで私は荒れ地の村から来たスウスウっていいます!!」  スウスウはしどろもどろになりながらも返事を返した。屋内の闇に目が慣れたスウスウには次第に中の様子が分かってきた。部屋の左側には三つのテーブルとイスが並んでいて、いまそこには二人の疲れた様子の男が座り何かの飲み物をしずかに飲んでいる。正面の壁にはさらに奥へ繋がる入り口が見えた。そして左側には床から一段高くなった番台のようなところに白髪には豊かな白髭を蓄えた大柄な男が鋭い目でスウスウのほうを訝しげに見ていた。 「あぁ、お嬢ちゃんがあいつの荷物か。朝に戻ってくるって言ってたのにこんなに遅れやがって・・・!」  白髪の男は舌打ちをするとドンと番台を叩いた。その音でスウスウはびくんと身を竦ませた。 「あ、あの運び屋さんが両替してくるからここで待ってろって・・・」  スウスウは絞り出すように小さな声で言った。 「そうか、まぁ良い。お嬢ちゃんも長旅で疲れただろ。ちょっとそのイスにでも座って休んでな」  白髪の男は少し優しげな声で言った。白い髭で隠れてはいるが、柔和な表情をしている。ちょっと怖いけど、スウスウは思った。優しい人なのかもしれない。  白髪の男は正面の壁の入り口に向かって大声を上げた。 「おい、いるか? 何か飲み物を持ってきてやってくれ!」 「そんな大声出さなくても聞こえますよ、まったく。ありゃりゃ、これまた可愛らしいお嬢ちゃんだねぇ」  入り口から顔を出したのはまるまると太った女性だった。歳から考えて白髪の男の奥さんなのではとスウスウは思った。  太った女性は奥に引っ込むとすぐにコップを乗せたお盆を持ってスウスウのところまで来た。顔には中年女性特有の人懐っこい笑顔を浮かべていて、建物に入って以来していたスウスウの緊張はようやく解けた。 「ほら、これ飲みな。慣れない旅で疲れただろ、良く利くよ」  スウスウがコップをのぞき込むと白い液体がかすかに湯気を上げていた。両手でコップを持ち、スウスウは恐る恐る飲んでみた。暖かく甘い匂いが口の中に広がり、飲み込むと舌に程良い甘さを残してお腹の中を暖めた。 「美味しい! 何ですかこれ?」 「ラクダの乳に蜂蜜を混ぜたもんだよ。疲れには良く利くんだ。ゆっくり飲みな」  中年女性は満足そうな笑顔を見せると優しく言った。 「なぁ、メルビのやつはお嬢ちゃんに失礼なことはしなかったか?」 「そうねぇ、メルビはちょっと気が荒いところがあるからね」  二人はコップを抱えるスウスウの顔をのぞき込むようにして問いかけた。 「そんなことないわ。メルビはとってもお行儀良くしてたわよ」  白髭の男性は感心したように言った。 「ふむ、あの野郎もずいぶんと気を使えるようになったもんだな。拾ってやった頃とは大違いだ」 「そうですよ、メルビだってもう仕事は長いんですから成長もしますよ」  二人はそう言い合っていたが、なんとなくスウスウは変な違和感を感じていた。  スウスウは一言付け足した。 「でもメルビってすごいオシッコが長いのね。初めて見たけどびっくりしちゃった」  奥で静かに飲み物を飲んでいた二人の男が飲み物を吹き出した。白髭の男性と中年女性は目を丸くしてぎょっとした表情をしていた。 「なんてこった・・・。あいつにはちょっと注意してやらんといかんな」 「まったく! 何を考えてるんだか! 年頃の娘にそんなところ見せるなんて」  二人は口々に言った。  スウスウは何か悪いことを言ってしまった気がして慌てて言った。 「オシッコしてるところを見たのは私が勝手に見たんだからメルビは悪くないわ! それにメルビはとっても乗り心地は良かったんだから!」  奥の二人はまたしても飲み物を吹き出した。白髪の男性は頭を抱え込んでしまった。中年女性は神に祈るように天を仰いでいた。  白髭の男性は絞り出すように呟いた。 「それは・・・、その、お前さんがのっかったってことか?」 「ええ。普通、乗るものでしょ? ちょっと擦れて股が痛くなっちゃったけど、とっても心地よかったわ」  白髭の男性は頭を抱えて中年女性に話しかけた。 「どういうことだ? 最近はそういうのが普通なのか?」 「いや、絶対に違いますよ。それにどっちがどっちにのっかろうと悪いのはメルビのほうですからね。がっちり締め上げてくださいよ」  中年女性は憮然とした様子で言った。  スウスウは何かがとてもズレているのは分かったが、どうにも誤解を解く方法が分からずあたふたと両手を動かしていた。 「親方、戻りましたよ。ちょっと両替屋のやつが駄々をこねやがりまして、ちょっと手間をくっちまって・・・」  運び屋の男はそこで自分に向けられている非難の目に気が付いた。 「ん? みんなどうしたんだ? あ、親方、これ料金の20ガドです」  親方と呼ばれた白髭の男性は20ガドの紙幣を奪うようにひったくると慣れた手つきで枚数を数えながら運び屋に話しかけた。 「なぁ、お前を拾ってから何年になる?」 「何ですかい、いきなり。まぁ12年くらいですかね」 「そうだ、馬に乗っているボロボロのお前を運び屋で仕事中だった俺が拾ってやってから12年だ。飯のまともな食い方から運び屋の心得まで全部仕込んでやったつもりだ」  運び屋の男はちょっと困惑気味に答えた。 「なんで今更そんな話しに? 親方には感謝してますよ。だから毎日真面目に運び屋稼業を続けてるんじゃないですか」 「そうだ! お前は毎日真面目に仕事をしている、さっきまでそう思っていた!」  白髭の親方は運び屋をにらみ付けて叫ぶように言った。 「ちょ、ちょっとどういうことですか? どうしちゃったんですか親方は。女将さんも何とか言ってやってくださいよ」  女将と呼ばれた中年女性は腕を組み、憤怒の表情で言った。 「自分の胸に聞いてみな! 私はそんな卑劣な男に育てた覚えはないよ!」  男はそこでようやく困ったような目で運び屋を見ているスウスウに気が付いた。 「スウスウ、お前がなんか言ったのか?」  スウスウはしゅんとした様子で答えた。 「ごめんなさい。何か勘違いさせちゃったみたいなんだけど、どうにもならなくて・・・」 「お嬢ちゃんは悪くないよ、悪いのはこの下劣な男なんだからね!」  女将はスウスウを庇うように抱くと運び屋に向かって鋭く言った。  親方は数枚の紙幣を運び屋の手に握らせて言った。 「お前にはがっかりしたが、最後にもう一度だけチャンスをやる。この金でお嬢ちゃんに美味いものでも食わせてやれ。それで罪滅ぼしになると思うなよ! だがお前のやっちまったことに対する埋め合わせがこれぐらいしか無いってことだ・・・」  白髭の親方は深い怒りを押さえ込むように呟いた。  ここに至ってようやく運び屋は状況を把握した。まずい、とにかくこの場を早く逃げ出したほうが得策だな、と運び屋は判断した。 「お、親方! 分かりました。それじゃスウスウを連れて<ハラペコ通り>にでも行ってきます! おい、スウスウ行くぞ」  女将に抱き寄せられたスウスウの手をひっぱり二人は運び屋組合の建物から逃げるように飛び出した。  走りながら運び屋はスウスウに問いかけた。 「おい、いったいどうやったらあんな勘違いになるんだ?」 「ごめん、でも普通のことを言っただけなのよ!」 「お前の「普通」はだいぶ普通じゃないみたいだな・・・」  女将の「ただで戻ったら容赦しないよ!」という怒号が響く中、二人は細い路地に入り込んだ。  食べられる宝石の散りばめられた絨毯。それがスウスウが旅商人から聞いた<ハラペコ通り>の評判だった。スウスウの目の前には幅広い通りの両側に並んだ店とその隙間を縫うように並んだ屋台、それにその店先に並べられた様々な料理がある。日除けとして通りの上には大小さまざまな原色の布が紐で渡してあって、それを通した日光が通りをカラフルに染めていた。看板には美しい装飾書体の文字が並び、通りに彩りを添えていた。道行く人々は店先に並べられた食べ物をのぞきながら楽しそうに談笑している。あたりには香辛料や焼き肉、砂糖菓子などの匂いが漂い、嫌でも食欲を刺激される。 「あのケチの親方が5ガドもくれるなんて! おいスウスウ、お前が何を言ったかはともかく、これで腹一杯食えるぞ。食いたいもんがあったら何でも言ってみろ」  運び屋は握らされた紙幣を数えながら嬉しそうに言った。  スウスウは目の前の光景と嗅いだこともない食べ物の匂いに心を奪われてぼうっとしていた。そろそろとスウスウは通りを歩きだした。  通りにはたくさんの人が忙しそうに歩き回っている。食べ物にありつこうとぶらぶらしている人もいれば、頭の上に果物を盛った駕籠を乗せて歩いていく女性もいる。スウスウはこんなにたくさんの人を一度にみたことが無かったのでぶつからないようにおっかなびっくり歩いていった。  少し歩いてある屋台の香ばしい肉の匂いにスウスウは心を惹かれた。屋台では串刺しにした大きな肉の固まりをぐるぐる回しながら焼いている。ジュウジュウと肉が焼ける音に合わせてスウスウのお腹がグウっと鳴って、急にお腹が空いていることを思い出した。 「まずはあれにするか? 良し、親父、ゲネルを二つくれ!」  屋台の店主の男性は、あいよっと威勢の良い声で答えるとナイフで肉の固まりをいくつか薄くそぎ落とし、薄く焼いたパンの間に挟み込んだ。 「付け合わせはどうします?」 「そうだな、キャベツと山羊のチーズ、トマト多めで。スウスウもそれで良いか?」  スウスウは訳が分からなかったが、とりあえず首を縦に振って答えた。 「はい、出来ましたよお二人さん。ソースはお好みでかけてください。500エトになります」  運び屋が財布から何枚かのコインを出して渡すと、店主は愛想の良い笑顔で二人に半月状になった薄焼きパンを差し出した。受け取ると焼きたての肉が湯気を立てていて暖かい感触が伝わってきた。 「俺は辛いのが好きだけど、お前は甘口で良いよな?」  運び屋は店先に置いてあった容器から手に持ったゲネルにソースを掛けながら言った。スウスウはまたもや意味も分からず首を縦に振った。運び屋は別の容器をとるとスウスウの持っているゲネルに振りかけた。 「まぁ、食ってみろ。これがゲネルってやつだ」  運び屋は自分のゲネルを一かじりして言った。スウスウも恐る恐るかじりついてみる。少し歯ごたえのある肉を噛みしめるとジューシーな肉汁が口の中に広がる。トマトのほどよい酸味と水分が肉の濃い味を包み込み、さらに甘口のソースが全体の味をマイルドにしている。 「んー! こぉれ、おいふぃいい!」 「飲み込んでから答えろよ、何言ってるか分かんねえぞ」  運び屋は笑いながら言った。スウスウは食べるのに夢中でそれどころではなかった。 「お嬢ちゃん、ゲネルを食べるのは初めてかい? それじゃ運が良かったな! この市場の名物はゲネルだし、その中でも一番美味いのがうちの店だからなぁ!」 「けっ、ぬかすぜ親父」 「なんですかい、旦那だって良く食べに来てくれるじゃないですか」  運び屋とゲネル屋の店主が言い合っている間に、スウスウはゲネルをすっかり食べ尽くしてしまった。指についたソースまで舐めた。 「今日はお祭りなの? こんなに美味しいものうちの村ではお祭りでしか食べれないわ」  店主は満足そうに答えた。 「そうかい、美味かったなら良し! そうだな、この通りは毎日が祭りみたいなもんだ!」  スウスウは他の屋台を見渡した。出しているものはそれぞれ違うが、威勢の良い声を上げる店主と見たこともない食べ物がたくさん目に入ってくる。スウスウはさっきまで人の多さに怯えてたのも忘れて、急にわくわくしてきた。あそこの屋台にはどんな美味しいものがあるんだろう? 「運び屋さん、次はあの屋台に行ってみましょう!」  スウスウは運び屋の手を掴むと引っ張りながら走り始めた。運び屋は思った、この様子じゃ、5ガドじゃ足りないかもしれないぞ。  スウスウが<ハラペコ通り>を駆け回り始めたのが正午を少し過ぎたあたりの時間だ。日はまだまだ勢いが衰える様子を見せず地上にくっきりとした影を作っていた。  少し時間が前後する。スウスウと運び屋が砂漠のキャンプで眠りについた頃、スウスウの村には夜の帳の中だった。村の中心近くにある魔術師の老婆のテントでは老婆が焚き火を囲み、じっと考え込んでいた。  老婆は焚き火を見ながら先ほど訪問してきた村長のことを考えていた。あの男も若い頃はまだ見所があったが、爺になると全部駄目になっちまうんだね、老婆は思った。我が祖先の土地、我が祖先の砂漠、我が祖先のオアシスを取り返すのが一番大事なことじゃないか。<渡来人>が奪ったあの土地さえ取り返せればすべては上手く行くんだ。あの村長は一番大事なことが見えていない。  やはり、私が打った手は正しかった、老婆は自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。 「やぁ、ちょっと良いかい?」  村長はテントの入り口から顔をのぞかせて言った。 「なんだい、さっき来たばかりじゃないか」 「お前さんはタムトとはちゃんと話したことがないじゃろ? これから村長になる者だ、顔合わせをしておこうと思ってな」 「まったく、そういう詰まらん気を回すことだけは立派だね」  老婆は顎をしゃくって囲炉裏の周りの座布団へ座るように促した。  村長の後をちょっと緊張気味に入ってきた背の高い若者がタムトだった。男前とまではいかないが、実直そうな顔をしている。 「こいつがタムトだ」 「ふん、この村の人間ならみんな赤ん坊の頃から知ってるよ」  村長とタムトは囲炉裏を囲んで座った。  しばらく沈黙が続いた。囲炉裏の火がパチパチとはぜる音が静かに響く。 「あ、あの・・・、私は<森の民>ともっと話し合いをしてお互いに歩み寄ることが必要だと思っています」  タムトは緊張気味だが、毅然とした様子で言った。  老婆はため息をつくと応えた。 「何も<森の民>との話し合いをしていることに文句はないさ。昔はうちの部族も<森の民>と上手くやってたんだからね。だが・・・」  老婆はタムトの目をじろりと睨みながら言った。 「我が部族の土地はどうするつもりだい?」  今度は村長が長いため息をついた。 「その話しはもう良いじゃろ。もちろん儂も祖先の土地、砂漠の暮らしを懐かしく思うこともある。じゃが、海から突然やって来た<渡来人>に土地を追い出され、今ではそこは市場になっているそうじゃないか。今更祖先の土地を取り返すなんてのは、無理と言うものだ」  老婆は村長の様子を蔑むように見て言った。 「やっぱりこの村の男どもは腰抜けばかりのようだね。本気で祖先の土地を取り返すことを考えていたのは私だけかい?」 「あの、失礼ですが一言言わせてください」  タムトは緊張した声で長老二人の会話に割って入った。 「祖先の土地が大事なことは分かっています。しかしそれを取り返そうとしたことでたくさんの人の命が奪われたことは確かですよね? 私はこの荒れ地で生まれてここで育ちました。そういう人間が部族の中でも増えています。祖先の砂漠よりもここの荒れ地での暮らしのほうが良いと考える人間が増えています。さきほど村長も言われたように祖先の土地には<渡来人>が街を作っています。現実的に考えても取り返すことは無理でしょう。そんな無理なことに人の命を使うよりも、ここの荒れ地での暮らしをより良くすることを考えた方がよいのではないでしょうか」  タムトは緊張気味の口調から説得力のある力強い態度に変わっていった。  老婆はそんな若者の様子を目を細めてみていたが、深いため息をついた。 「そうだな、お前たち荒れ地で生まれ育ったものはそれで良いのかもしれんな。だが、わしのような古い人間はそれではいかん。何としてでも祖先の土地を取り返さねば、あの世で先祖に顔向けが出来ん」 「しかし、いったいどうやって取り返せというのですか!? <渡来人>たちの武力には私たちでは太刀打ちできません。これ以上の人命を失うわけにはいけないでしょう!」 「ふん、お前たちの力は借りないよ。私がもう手は打ってある」  老婆は不敵に微笑んだ。興奮していたタムトはその様子をみて村長のほうを意見を伺うように見た。 「手を打った? お前さんはいったい何をしたんじゃ? さっき来たときも<渡来人>街は砂に沈むとか言っとったな。お前さんは何を・・・」  村長はそこまで言って顔色を変えた。 「まさか、あの術を使う気ではあるまいな? あれは遙か昔から我が部族の禁術だぞ!」 「今使わずにいつ使えと言うんだい? これで祖先の土地が取り戻せるならご先祖様も許してくれるさ」  村長は激昂して言い返そうとしたが、急に何かに気づいたように辺りを見渡した。 「スウスウ、スウスウはどこじゃ! お前さん、まさかスウスウを禁術に・・・」 「あの子を引き取ったときから考えていたんだ。おい若造! 一人の命で部族を救えるなら文句はないじゃろ。今日の日没には<渡来人>の街は大砂嵐で砂に沈む。取り返すには日没後に街に乗り込まないといかん。戦の準備をしておけ!」  タムトは状況が掴めず戸惑っていた。村長は皺だらけの顔をさらに歪めて、悔しいような悲しいような複雑な表情を作っていった。 「スウスウはお前さんを本当の祖母のように慕っていたじゃないか。お前さんも厳しく躾ていたようだが、スウスウを見る目は穏やかだったぞ。それなのに、お前はスウスウを砂の爆弾にすることを考えていたのか・・・」 「ちょ、ちょっと待ってください。どういうことなんですか? スウスウは魔術師見習いの女の子ですよね。それに砂の爆弾? いったいどういうことですか?」  老婆はゆっくりと口を開いた。 「我が部族の魔術には決して使ってはいけないと言われている禁術がある。そのひとつが「大砂嵐」じゃ。人間にその人間の生命力と砂と風の力をため込む印を彫り、長い時間を掛けて力を蓄積する。そして時が満ちた日の日没に、それまでため込んだ砂と嵐の力を一気に解放する。印を彫り込んだ人間の命と引き換えにな。その命は大砂嵐となって大地を削り、雲を吹き飛ばし、すべてを砂の下に沈める」 「それをスウスウに掛けていたのじゃな。スウスウは今頃<渡来人>の街に向かっているのか?」  村長は深い悲しみをたたえた表情で聞いた。 「あぁ、昨日の朝一番で運び屋に連れていかせたよ。今からじゃ追いつくのは無理だね」  老婆は満足げに言った。 「そんなことは間違っている!」  タムトの声だった。怒りと覚悟を含んだ声だった。 「たとえそれで祖先の土地が取り返せたとしても、そんなことは間違っている! 私は失われる人命の数を心配しているんじゃありません、人命が失われること自体が間違っていると言ってるんです! そんな小さな女の子の命の上に取り返した土地なんかに誰が胸を張って暮らしていけるんですか!? 絶対にそんなことは止めるべきです」  老婆は若者の予想外の反応にちょっと驚いたようだった。  タムトはさらに続けた。 「何か止める方法は無いんですか? あるのならば私は全力であとを追って、スウスウに掛けられた魔術を止めて見せます。あなただって本当はスウスウが死んでしまうことは嫌なんじゃないですか? 引き取ったときから考えていたと言っても、私には二人はどう見ても祖母とその孫娘でしたよ。元気にあれこれ世話をやくスウスウに、あなたも目を細めていたじゃないですか」  老婆は考え込むように囲炉裏の火を見つめていた。 「・・・止めることは、出来ん。だが、術の発動を遅らせることは出来る」  老婆は布袋を取り出すと中をごそごそと探り、小瓶を取り出した。 「これを飲ませれば、力が満ちるのを数日遅らせることが出来る。スウスウを連れてくることが出来れば、何とか止めることも出来るかもしれないな」  タムトは小瓶をひったくるように取るとテントの外に駆けだした。  テントの中には二人の長老が残された。村長が口を開いた。 「なぁ、お前さん、やっぱりスウスウは孫のような・・・」  老婆は村長の台詞を遮っていった。 「どうやったって今からじゃ間に合わないよ。だから渡したんだ。どうなろうが<渡来人>の街は砂に沈むよ。しかしあのタムトという小僧・・・」  老婆は面白そうに笑った。 「なんじゃ? こんなときに急に笑いおって」 「なに、若い頃のお前さんにそっくりじゃないかと思ってね」  テントの外を馬の蹄の音が駆け抜けた。 「なぁ、なんで魚なんだ?」  午後三時を過ぎたころの<ハラペコ通り>にはまだ人通りが絶えず、美味しそうな匂いに釣られた人たちが大勢歩いていた。運び屋とスウスウは焼き菓子を出す屋台に立ち寄っていた。 「なんで魚の形なんだ? 別に鳥でも馬でも良いじゃないか」 「旦那、勘弁してくださいよ」  東洋系の顔立ちをした屋台の店主が困ったように言った。 「でも”タイヤキ”っていうのに魚の肉は入ってないようだし、なんで魚の形をしてるのか前から不思議だったんだ。なぁ、スウスウも変だと思うよな」  タイヤキをガツガツと夢中で食べていたスウスウは笑顔でこたえた。 「うん、ツブアンってやつ、美味しいよ」 「・・・そうか良かったな。なぁあんた店主なんだから知ってるだろ? なんで魚なんだ?」 「いや~、あっしの故郷では昔から鯛焼きは魚型って決まってまして、どうしてと言われましてもちょっと分からねえんです」  ハチマキを巻いた店主は頭を掻き掻き困り顔で応えた。 「まぁ、良いか。砂漠の真ん中で魚ってのがどうしても不思議でなぁ~」  運び屋は納得がいかない顔をしていたが、追求するのを諦めてスウスウに声を掛けた。 「しっかし、お前はどれだけ食べたら気が済むんだ? もう10件はまわってるぞ」 「だって美味しいから! 食べられるだけ食べたい」 「分かった、それも何かの魔法だな! ”胃袋を宇宙にする魔法”とかそんなんだろ!」  スウスウはきょとんとした顔で運び屋を見つめていた。 「そんな魔法ないよ」 「素で返さないでくれ。ちょっと恥ずかしくなってくるだろ。・・・そろそろ歩き疲れただろ、ちょっとそこの喫茶店で休憩するか!」 「うん!」  スウスウは元気良く返事をするとタイヤキ屋に声を掛けた。 「あと、コシアンってやつをひとつちょうだい!」 「やっぱり魔法だろ、それは」  運び屋はあきれ顔で言った。 【アルカ(仮)】  喫茶店の店内は刺すような太陽の熱から遮られた影に守られて程良い涼しさが漂っていた。店内には奥の席に水タバコをふかす仲の良さそうな老人の3人組のほかには誰も居なく、静かで雰囲気が流れていた。  運び屋の男は入り口近くのテーブルに座っていた。さきほどスウスウに聞いたことを思い返しながらテーブルに突っ伏していた。 「・・・お前、「メルビはどうだった?」って聞かれて親方にそう応えたのか?」 「そうだよ、間違ったことは言ってないのに、何だか変だったね」  運び屋はやっとのことでダメージから立ち直り、重々しく頭を上げた。ちょっと心配そうにスウスウは運び屋の様子を見ていた。 「私、何か悪いこと言っちゃったの?」 「いや、お前は悪くない。俺が説明不足だったんだ・・・。だがこれから親方にどう言い訳すれば良いのか。あの親父は昔から人の話しを聞かないからなぁ」  スウスウは珍しく責任を感じた様子で懐から紙包みを取り出し言った。 「タイヤキ、コシアンだけど食べる?」 「それはお前が食べろ。いやいや、大丈夫だ、何とかなる! 良し、もうこの話しは終わりだ! 明日は明日の風が吹くと言うもんだしな!」  運び屋は急に大声で何かを振り切るように言った。臨席の老人たちが楽しそうにそれに応えた。 「そうじゃ、若もんはそうでなくてはいかん!」 「若いときはちょっとバカなぐらいでちょうど良いんじゃ」 「そうだな、わしらが若いときも・・・」  老人たちは勝手に激励するとまた勝手に自分たちの話しに戻っていった。 「あら、随分楽しそうね」  スウスウと運び屋の座るテーブルのすぐ横に背の高い女性が立っていた。チョコレート色の肌に少しウェーブの掛かった長い髪の毛、優しげな垂れ目の下にはシャープな鼻と白い歯がこぼれる唇が並んでいた。紺色の全身を包むシンプルな服を着ていたが袖口や襟にはカラフルなモザイク模様が刺繍されており、女性のセンスを控えめに主張していた。  女性は椅子を引き、さっと座るとスウスウと運び屋を交互に見ながら言った。 「今日は彼女連れ? 珍しい!」 「なんだ今日はアルカが来てたのか。運が悪いな」  運び屋はうんざりした様子で言った。 「運が良い、の間違いでしょ? オーナーが自分の店の様子を見に来て悪いわけ? それよりもこっちの可愛らしい彼女を紹介しなさいよ」  スウスウはびくんと身を震わせて反応すると勢い良く喋り始めた。 「初めまして! 私は魔術師見習いのスウスウです。そっちの運び屋さんにこの街まで連れてきてもらってー」 「要するに俺の今回の荷物だ。彼女とか変なこと言うなよ、まったく」  運び屋はスウスウが余計なことを言い出す前に遮って言った。  アルカと呼ばれた女性は急に口を覆って笑いを堪えるように言った。 「実はさっきちょっとした荷物があってね、運び屋の事務所に行ったのよ。そしたら親方が、あの親父さんが…」  アルカはそこで堪えきれず大声で笑いだした。 「あんたが荷物に手ぇ付けたからあたしからも何とか言ってくれって…、ふふ、あなた随分女の趣味が変わったのねぇ」 「ち、違う、それは親方の勘違いで」  アルカは笑い疲れたように欠伸をすると手をひらひらさせて言った。 「分かってるって、アルカ姐さんには全部お見通しよ。さっきのお嬢ちゃんの話しも実は裏で聞いてたし。それにしても噂の主役がこんな可憐なお嬢ちゃんだったとはね、親方の早とちりも困ったもんだわ」  アルカはスウスウの頭を優しく撫でると、急に真剣な表情で言った。 「やっぱりキューティクルが違うわね、若いって良いわぁ」 「そりゃスウスウは12だし、アルカみたいなにじゅう…」  運び屋の台詞は素早く飛んできた裏拳に遮られた。 「人前で勝手に女の年齢を明かすような無神経な男ってイヤよね~、スウスウちゃん」 「…客に裏拳食らわすのがこの喫茶店のサービス方針なのか?」  運び屋は鼻先を押さえながら言った。 「あら、喫茶店の椅子に座ってただ喋っている人はお客と呼ばないのが世界共通の常識よ。さてスウスウちゃん、何か飲みたいものある?」  スウスウは二人のやりとりをはらはらしながら見ていたので、とっさに思い浮かんだ飲み物を答えた。 「あの、運び屋さんの事務所の女将さんが飲ませてくれた、ミルクに蜂蜜を混ぜたやつ」 「あぁあれね、疲れたときはあれが良く利くからね。あんたはコーヒーで良いでしょ。ブッチゴ! コーヒーふたつと蜂蜜ミルクひとつ!」  アルカがカウンターに呼びかけるとブッチゴと呼ばれた男が巨体を屈めてカウンターの隙間から顔を出した。 「はい、アルカ姐さん」 「もう! アルカ姐さんじゃなくて社長でしょ!」  ブッチゴはこれまた大きな手で頭を掻いて困ったように笑った。巨体に似合わず人懐っこい笑顔だ。 「まったく、あの笑顔だから厳しく言えないのよねぇ。困ったもんだわ」  アルカはテーブルにひじをついて顎を支えた。ちょっと考え込むように目を細めていたが、何かを振り払うように頭を振るとスウスウに笑顔で話しかけた。 「こいつに砂漠を移動している最中に失礼なことされなかった? 昔から礼儀知らずな奴だからね」  アルカは運び屋を横目で見ると意地悪そうにニヤリと笑った。 「アルカに失礼とか言われたくないな。というか礼儀知らずとか言えるのか? 怖いものなしのアルカ姐さんが」  スウスウは黙って二人のやり取りを聞いていたが、出し抜けに発言した。 「二人はいつから付き合ってるの?」  運び屋とアルカは目を丸くしてスウスウを見つめた。 「運び屋さんとアルカさんって恋人同士なんでしょ? すごく仲が良さそうだもん」  二人は目を丸くしたままお互いに顔を向けた。 「あーはっはっはー! あたしがこいつと付き合ってるって? こいつと付き合うならラクダとハネムーンに行った方が100倍楽しいよ! お嬢ちゃんも将来つまんない男に引っかからないように、よーくこいつの様子を観察しといた方が良いよ!」  アルカは椅子から転げ落ちそうになりながら大笑いした。運び屋はその様子を苦々しげに見ている。 「それをいうならこっちのほうだ。今時「星トカゲ舞踏団」の団長アルカと付き合わなきゃならないんだったら、毒蛇100匹と同じ部屋で寝泊まりする方がマシだってやつのほうが多いだろうぜ」 「そうそう、綺麗な花にはトゲがあるってね。まったく綺麗に生まれると辛いわね~、スウスウちゃん」  スウスウはアルカの両手でほっぺたを挟まれていたので、顔を縦に振ることしかできなかった。テンションが高くて慣れるのに時間が掛かりそうだけど、アルカという人もおもしろい人みたい、とスウスウは思った。  ズゥっとテーブルを囲む3人に影が被さった。巨体に似合わぬ小さな盆に飲み物を乗せたブッチゴだった。丁寧な手つきで三つのカップを三人の前に並べていく。注文の品を出し終わったあとにテーブルの中心に乾燥フルーツが盛られた皿をさりげなく置いた。間髪入れずアルカのチェックが入る。 「これはサービス? あなたのこういう気遣いはすごく良いと思うけど、これは商売だからね。・・・そうね、こいつの払いにツケときなさい」  運び屋のほうを指さしながら事も無げに言った。 「なんで俺のツケになるんだよ、いくら何でもたかりすぎだ!」  アルカは面白そうに乾燥マンゴーにパクついているスウスウを指さした。 「・・・しょうがねえなぁ」  運び屋とアルカはしばらくお互いの近況について話していた。スウスウにはほとんど分からないことばかりだったので黙々と乾燥フルーツを食べていた。二人の会話を良く聞いていると「星トカゲ」という言葉が良く出てくる。スウスウは二人の世間話が途切れるのを見計らって口を挟んだ。 「ねえねえ、さっきから言っている「星トカゲ」ってなに?」  アルカはニヤリと不敵な笑みを浮かべると少し得意げに答えた。 「良くぞ聞いてくれたなスウスウくん。「星トカゲ」、正式名称「星トカゲ舞踏団」とはこの街を裏から支配する秘密結社なのだー!!」  両手を脅かすように振り上げて芝居っけたっぷりに答えるアルカに運び屋は呆れ顔でつっこみを入れた。 「何が秘密結社だよ、アホらしい。ただのストリートギャングだろ? しかも俺たちが子供の頃の話しじゃないか」  アルカは冷たい目で運び屋を見ながらスウスウに説明を続けた。 「まぁ、あの男は舞踏団の中でも落ちこぼれだからな。そもそもお情けで団員にしてやったようなものだ。「星トカゲ舞踏団」とは! ただのストリートギャングではない! 少なくとも私が団長になってからは違う!」  アルカは次第に言葉に力が入り腕を振り上げながら演説口調で言った。 「団員ナンバー5、ブッチゴ! 星トカゲ舞踏団の団則を言ってみろ!」  急に呼ばれたブッチゴはびっくりしたがすぐに身体をぴんと伸ばして直立不動の姿勢を取ると大声で答えた。 「団則1、止まるな踊れ! 団則2、踊っているものは皆正しい! 団則3、これ以上の団則はない!」 「よろしい! ブッチゴ団員、仕事に戻りたまえ」  ブッチゴは戸惑った様子で直立不動の姿勢を解いたが、まだアルカのほうを緊張した面もちで観察していた。  アルカは満足そうに頷くとスウスウに聞いた。 「どうだい、これで分かった?」  スウスウは身を強ばらせて一連の演説を聞いていたが、アルカの問いかけには何とも返事が出来なかった。見かねて運び屋が口を挟んだ。 「今のじゃまるっきり意味不明だろ。あのな、星トカゲ舞踏団ってのは俺たちが子供のころに作った集団で、要するに浮浪児たちの自警団だな。その初代団長がこのアルカ。なぜ「星トカゲ」でなんで「舞踏団」なのかは俺も知らない。少なくともみんなでラインダンスなんかしたことはなかったはずだがな」  アルカは得意げな表情で腕を組んだまま言った。 「うむ、なかなか簡潔な説明でよろしい団員ナンバー37。  そもそも、だ。この世の中で一番弱いのは子供である。さらに孤児であるとさらに弱い。とてもではないが一人で生きていくことはできない。だから私が現れる前は大小さまざまなギャングが裏道を仕切っていた。ギャング団同士の争いもあった。助け合うという目的のために集まった集団がお互いを攻撃し合うのはとても不合理である! だから私がすべてのギャング団をまとめ、「星トカゲ舞踏団」として一致団結させたのだ」  ますます演説に熱が入るアルカはもはやスウスウのほうを見ておらず中空の一点を見つめ大きな身振り手振りを加えつつ話しを続けた。スウスウはその様子を恐る恐る見ていたが、運び屋は「またいつものが始まった」といった様子で静かに飲み物を飲んでいた。 「そうだ! 助け合いだ! 団結だ! 旅芸人の踊り子だった私は座長と大喧嘩をして一座を飛び出すとあっと言う間に孤児になりこの街の裏道で暮らすことになった。そして見たのだ! 弱者が弱者を虐げる様を! 私の正義の心は燃え上がり、さらに燃え上がり、そのころの私を知るものは目から炎が溢れていて危うく前髪がちりちりになるところだったという! 私は一番大きな少年ギャングのアジトに単身乗り込むと、襲いかかる敵をビシバシドカンとなぎ倒すと、ついにギャング団のボスと対決、三日三晩の死闘のあと、立っていたのは私だった。踊り子として鍛えた身体能力と燃え上がる正義の心がついに勝利したのだ! 私はそのギャング団を我がものとして旅芸人時代の一座の名を取って「星トカゲ舞踏団」と命名した! そこからは血と汗と涙と友情、勝利、努力の物語が――」  スウスウは助けを求めるように運び屋を見た。しかたなく運び屋は口を挟んだ。 「アルカ、それぐらいで良いんじゃないか? スウスウがいきなり演説が始まったんでビビっているぞ」  アルカはふいに現実に戻ると、立ち上がり腕を振り上げた姿勢を解いて椅子に座った。 「もう、ここからが面白くなるところなのに。まぁ、そんなわけで私が作った星トカゲ舞踏団はストリートギャング統一を果たしてお互い最大限助け合う平和な世界ができたってわけよ」 「アルカが恐ろしいのはさっきの話しにほとんど嘘や誇張がないところだな。そのあとアルカと喧嘩したやつはすべて地面の舐める羽目になってるからな。もはや女というかメスだな。人間かどうかも怪しい。ゴリラの突然変異かも・・・」  運び屋の軽口はアルカの手によって遮られた。運び屋の喉笛に食い込んだアルカの右手がギリギリと首を絞め上げていた。 「それ以上なにかいうことがある? イエスなら瞬き2回、ノーなら瞬き一回で。あーそー、ノーか、でもノーだったら離してあげるって約束した訳じゃないわよね。おぉイエス! ならちょっと緩めてあげるから話してみなさい」 「ア、アルカは・・・、メスゴリラの中でも美人なほう、グェ!」 「あまり命を粗末にするのは良くないわよ。でもスウスウちゃんが泣きそうな顔で見てるからそれに免じて許してやるわ。感謝なさい」  スウスウはほっとした顔で喉をさすっている運び屋を見ていた。 「まったくあんたは昔っからそうよね。どんなに痛めつけても自分の主張を曲げない。星トカゲがまだ半分ギャングのような状態だったころ、町中で運び屋見習いをやってるあなたは絶対に裏道の通行料を払わなかったらしいわね。しょうがなく毎度毎度ぼこぼこにしてもゾンビみたいに起きあがってくるから団員がうんざりしてね、しょうがなく星トカゲのメンバーに加えることにしたのよね。団員なら通行料無料だから」 「だから俺は未だに星トカゲの団員だっていう自覚はないぞ。こんなバケモノみたいな女ボスの下に付くなんて命がいくつあっても足りないからな」  スウスウは何となく二人の関係が分かってきた。ちょっと普通じゃないけど、幼なじみか姉弟みたいなものなんだ、とスウスウは思った。  運び屋の台詞にアルカはじろりと横目で睨んだが何もせずに飲み物に口を付けた。アルカは一口飲むと急に何かよいことを思いついたように笑顔を見せた。 「スウスウちゃんはコーヒーって飲んだことある? この黒い飲み物」  アルカは自分のカップをスウスウの前に置いた。スウスウがのぞき込むとゆらゆらと揺れるコーヒーの水面に黒い自分の顔が映っていた。スウスウは黒い飲み物なんてものを飲んだことは無かったが、その飲み物から立ち上る香ばしい湯気には好奇心をそそられた。 「ううん、飲んだこと無いわ」 「じゃぁせっかく街に来たんだし飲んでみましょう。一気にグイっといくのが作法よ!」 「おいおい、いきなりそんな――」  スウスウはグイっとカップを傾けてコーヒーを飲むと、口の中の琥珀色の液体を思いっきり吹き出した。ちょうど正面にいた運び屋は顔面にスウスウの吹き出したコーヒーを全部受け止めることになった。 「――いきなりそんなに飲んだら苦くて驚くだろって言おうとしたんだがな」 「ご、ごめんなさい! びっくりして、あとお婆様に「新しいものを口にするときに毒だと思ったら思い切り吐き出せ」って言われてたから!」 「人の顔面に向けて吐き出せとも言ってたのか? 毒なのに?」  顔面から肩口まで琥珀色に染まった運び屋を見て、アルカだけは大笑いしていた。 「あーっはは! 狙い通り! スウスウちゃんは全然悪くないのよ~、むしろコーヒーをかぶった方が男前になるんじゃないの? スウスウちゃんにはちゃんと美味しいコーヒーの飲みかたを教えてあげるわ」  アルカはスウスウの蜂蜜ミルクのカップを取るとそれにコーヒーを少し垂らした。カップを揺すってかき混ぜると薄い琥珀色の螺旋がミルクの上に描かれた。 「これならそんなに苦くないわよ。どうぞ」  スウスウは恐る恐る返されたカップに口を付けた。濃厚な牛乳と蜂蜜の甘みのほかに仄かな香ばしい苦みが口の中に広がり、両方の味を引き立てている。 「美味しい! さっきのと全然違う」  アルカはスウスウの頭をぽんぽんと叩きながら言った。 「ごめんごめん、さっきはちょっとこの男にイタズラをしてやりたくなってね。でもこれは美味しいでしょ? コーヒーは生で飲むのが一番刺激的だけど、ほかの甘いものに混ぜても美味しいわよ。コーヒーはただ乾きを癒すものではなくて元気を与えてくれる飲み物なの!」  アルカはカップに残ったコーヒーをさきほどのスウスウと同じようにグイっと飲んだ。スウスウは内心ドキドキしたが、アルカはコーヒーに慣れているらしくきちんと全部飲み干した。 「よーっし、元気が出てきたぞー! そろそろ他の店の見回りに行くかー!」  アルカは両手を振りあげて伸びをした。運び屋は顔についたコーヒーを拭きながら「早く行っちまえ」と声を出さずに口の形だけで言った。人間は学習する生き物である。 「では踊ろうか、スウスウちゃん」 「え?」  アルカはスウスウを真っ直ぐに見つめて言った。スウスウには意味が分からない。 「さっきブッチゴが言った団則を聞いてなかった? 団則1! 止まるな踊れ! 星トカゲの団員はすべてダンサーであり、さらに言えば人はすべて生まれついてのダンサーよ! ほら、あそこに四角いステージも用意されてるし」  アルカが指さしたのは喫茶店の入り口だった。すでにだいぶ傾いている日光が喫茶店の入り口に切り取られ、四角い光のステージを床に描いていた。  アルカは椅子の後ろの方向に寄りかかり傾け、椅子が倒れる寸前で身体を丸めて後方宙返りをした。椅子はカタンと軽い音をさせて元に戻った。それは猫のようにしなやかで鳥のように軽い動きだった。アルカは目を丸めてその様子を見ていた。 「ブッチゴ! 用意!・・・はもうしているようね」  ブッチゴは小脇に太鼓を抱えてバチのように太い指で器用に軽いリズムを叩き始めた。店の奥に陣取っている老人たちから歓声が上がる。 「おぉ、アルカちゃんの踊りが見れるとは、今日は運が良いのう」 「待っとったかいがあったわい」 「今度末の息子が結婚するんじゃ、飛びきり派手なやつを決めてくれんか」  アルカが目配せするとブッチゴは激しい飛び跳ねるようなリズムを叩き始めた。 「さぁお客さん、この喫茶店のオーナー、アルカが気が向いたときだけ踊るショーが始まるよ! 常連さんの息子さんが結婚するとあっちゃぁ、このアルカ姐さんも本気で踊らなきゃいけないね! さらに新顔の可愛らしいお客さんも見ていることだし」  アルカはちらりとスウスウの方をみるとウィンクした。  ブッチゴの叩く太鼓のリズムがさらに激しさを増した。怒濤のごとく流れる打音のひとつを捕まえてアルカは踊り始めた。風に揺れる絹のような優雅な動き、強い打音とともに振り上げられる腕と踏みつける足、捻れ震える腰の動き。腕と足に着けられた鈴が踊りに合わせてシャンシャンと鳴る。黒い服の下に重ね着をしている黄色や青の鮮やかな布が足の動きに合わせて広がりダンスに視覚的な彩りを添えていた。  色の付いたつむじ風みたいだ、とスウスウは思った。背が高く手足の長いアルカの素早い動きは野生のジャガーのような力強さを感じさせた。スウスウの村ではこんな踊り方をするものは居なかった。見ている者の心臓を無理矢理つかみだして振動させるようなエネルギーを感じさせるダンス。スウスウは最初驚き、次第に踊りの激しさに合わせて自分の心臓がドキドキしてくるのを感じた。  アルカがスウスウの様子を見て手招きした。叫ぶように呼んだ。 「スウスウ! 踊りたいんならこっちに来てみな!」  スウスウは椅子を降り、恐る恐る踊るつむじ風に近づいた。光のステージに近づくとふいに手が伸びスウスウを掴んで引き寄せた。スウスウには何がなんだか分からなかった。めまぐるしく変わる店内の景色、引き寄せられては押しやられ足がもつれないようにするので精一杯だ。だけれど、楽しい。太鼓の音とスウスウの動きはアルカのガイドによって辛うじてシンクロし、スウスウは音と自分の身体が解け合うのを感じた。踊りの最中、アルカの顔をちらりと見ると苦しそうな笑顔をしていた。激しい動きに疲れているがそれを上回る快感に突き動かされている顔だ。スウスウはふいに自分も同じ顔をしていることに気づいた。楽しい気持ちが心いっぱいに広がり、スウスウはぎこちないながらも自分で手足を動かし始めた。スウスウは自分の踊りを運び屋が見ているか気になり、めまぐるしく変わる店内の景色に運び屋の顔を探した。一瞬見えた運び屋は光に満たされた戸口とは対照的に日陰の闇に溶け、その闇から寂しそうな笑顔をこちらに向けていた。スウスウはすっと気持ちが冷めるのを感じた。  ブッチゴがひときわ大きくダンっと音を響かせ、アルカはポーズを決めた。スウスウは慌てて適当なポーズを決める。店内からパラパラと拍手が起こった。スウスウは自分の頭に手が載せられるのを感じた。 「スウスウちゃん! 意外と踊れるじゃないか! よーっしスウスウちゃんを星トカゲの新団員に任命しよう!」  アルカは上気した顔で嬉しそうに言った。それから店内のほうを向くと芝居がかった口調で言った。 「これにてスウスウ&アルカのダンスショーは幕引きとなります! またの公演があるか否かは明日明後日将来のお楽しみ! こちらの小さなダンサーのデビューに拍手を! あとそちらのお客さんの息子さんの結婚にも拍手! こんなダンスで景気付けになりましたでしょうか?」  老人の一人が答えた。 「あぁ、充分だ! そっちのおチビちゃんもありがとうよ、楽しい踊りだったよ」  スウスウはちょっと戸惑ってモジモジしていた。アルカがスウスウの背中を叩いた。 「ほら誉められたらお礼を言わなきゃ駄目よ」 「あ、ありがとうございまふ、ました」  お礼の台詞を噛んだ。スウスウは真っ赤になったがアルカは豪快に笑い飛ばした。  それからアルカは運び屋の方を見ると言った。 「分かったかい、今この瞬間からスウスウちゃんは新しい団員だ。おまえの後輩なんだからちゃんと世話を焼いてやるんだよ! そんな辛気くさい顔をしてるんじゃあない!」  運び屋は手を挙げて無言で答えた。  アルカは満足そうな表情を浮かべると、ぐっと身を沈め後ろに向かって宙返りをした。喫茶店の入り口の上枠に足を掠らせながら回転すると猫のように音もなく石畳の通りに着地した。 「それでは、さらばだ!」  スウスウが別れの言葉を言う暇もなくアルカは通りの人混みに走り去っていった。 「まったく、昔っからああなんだ。自分勝手で派手好きで、人の面倒はとことん見る。あと酒では酔わないがコーヒーには酔っぱらう」  戸口に立ったスウスウの脇に運び屋が来て言った。スウスウは不思議そうな顔で聞き返した。 「それってすごく良い人だって意味?」  運び屋は肩をすくめて答えた。  スウスウと運び屋が喫茶店でダンスショーを演じているとき、砂漠では砂埃を立てながらすごい勢いで走る馬があった。タムトはスウスウに掛けられた”砂嵐の魔術”の発動を遅らせる薬を持ってスウスウたちの足取りを追いかけていた。砂漠の殺人的な日光の中、走りっぱなしの馬は苦しそうに息をしていたが、タムトは鞭を打つ手を緩めなかった。自分の懐に入っている小瓶にひとつの街に住む人たちの命、部族の未来が掛かっているのだ。馬には悪いが潰れる寸前まで走って貰う、とタムトは思った。  一面の砂の大地の先に粒のような何かが見えた。近づいていくとそれは焚き火をした跡だと分かった。馬を手前で止めてタムトは砂上に降り、慎重に砂についた足跡を読む。砂漠に住むことは無くなったが、砂漠の部族の男にとって砂についた跡を読むことは狩りや仲間の行き先を探る上で必要不可欠の技術として伝えられていた。  その砂読みの技術が、ここに大人の男と少女が居たことを告げていた。焚き火の周りについた足跡は風で消え掛けていたが、それでもタムトならば砂読みをすることは容易なことだった。タムトは立ち上がり目の前の砂丘を見る。 「夜明けと同時にあちらに向かったようだな」  タムトは呟くと馬に飛び乗り、砂丘を全速力で上るように鞭を振るった。  太陽は天球の頂上を過ぎ、タムトと馬の影を細長く伸ばし始めていた。 【4.ガラスの噴水】  底なしの胃袋かと思われたスウスウの食欲もようやく満ちたとみえ、二人は<ハラペコ通り>を抜けて市場の中心部にある商店街をぶらぶらし始めた。スウスウは見るものすべてが新しく映るらしく、興味津々で店頭にある雑貨を見ていた。商店街は市場の真ん中にある丸い広場の周囲を囲むように立っている。さらにその中を露天商が店を広げているので、雑多な印象を強めていた。店にはアクセサリーや旅人相手の土産物、女性向けの衣類や化粧品など、様々なものを売っている店がごちゃごちゃと無秩序に並んでいる。スウスウも最初、あまりにも沢山のものを一度に見すぎて固まっていたが、恐る恐る店に踏み行ってみると調子を掴んだらしく、あちこちの店を見回り始めた。 「ねえねえ、運び屋さん、これとこっち、どっちが良いと思う?」  スウスウは薄く細かい刺繍の入ったベールを頭からかぶり顔の前で交差して鼻から下を覆っていた。濃い紫の布がスウスウの褐色の肌と良く似合っていた。スウスウの右手が指さしているのは同じ柄の明るい黄色のベールだ。 「今付けている方が良いと思うぞ。ただ言っとくがな、そんな質の良いベールなんか買う余裕はないからな」 「良いの! 付けてみたいだけだったから」  スウスウは楽しそうにその場で一回転した。薄いベールがふわりと広がり、柔らかに落ちた。ベールの隙間からのぞいているスウスウの目は嬉しそうに三日月形に笑っていた。そういやこいつも女だったんだなと、運び屋は思った。  スウスウはベールを脱いで綺麗に畳んで戻すと、別の店に移っていった。スウスウは今度は銀細工を並べた露天商と何か話し始めた。  運び屋には見慣れた店ばかりだ。ちょっと退屈してちょうど横にあったおもちゃを並べた屋台の商品をさわり始めた。少し風が吹き、店先の風車がからからとまわった。その風車を見つめていると、運び屋の脳裏にスウスウの背中にあった卍型の入れ墨が浮かんだ。 「なぁ、スウスウ!」  しゃがみ込んで露天商と話していたスウスウはとことこと運び屋のところへ歩いてきた。 「あそこの銀細工、すごく値引きしてくれるって言ってたよ」 「あぁ、あそこは偽物ばっかりだからな。まぁ、それは良い。もうちょいで運び屋としての仕事は終わりだから気になってることを聞いてみたいんだが、良いか?」 「うん? 良いよ」  スウスウはきょとんとした表情で応えた。 「別に見るつもりじゃなかったんだが、お前の背中に大きな入れ墨があるだろ? あれって何か魔術師として必要なことなのか? 俺はヤクザものでもあんなに大きな入れ墨を入れたやつを見たことが無くてな。子供には痛くて耐えられないと思うんだが」 「いれずみ? 背中に? 何のこと言ってるの?」 「いや、背中に入れ墨を入れてるだろ?」 「そんなもの無いよ。入れ墨なんて痛くてやだもん」  スウスウに嘘をついたり誤魔化したりしている様子はない。不思議そうに運び屋を見つめ返していた。 「俺は確かに見たぞ。砂漠で砂を払うときに服を脱いで、そのときに背中に入れ墨が入っているのを見たんだ。なんというか、この風車みたいな卍型の図柄だったぞ」 「風車みたいな図柄? そんなわけ無いわ、だってそれじゃ私が・・・」  スウスウは真剣な顔をして急に黙った。運び屋は続く言葉を待ったが、沈黙が続くだけだった。 「おい、スウスウ、大丈夫か? 顔色がおかしいぞ」  運び屋はスウスウの肩を軽く揺すったが、返事はなかった。  スウスウは急に背中を向けると商店街をゆっくりと歩き始めた。商店街ではうるさいぐらいに呼び込みの声が聞こえてくるが、スウスウは何か考え込む様子で呼び込みの声にいっさい反応せず、ゆっくりと下を向いて歩いていた。運び屋はそのあとを着いていくことしかできなかった。  しばらく二人は距離を置いて歩き続けた。  太陽は一日の仕事を終え、地平線へ足を着け始めていた。砂漠には影が伸び、砂丘の影が夜には少し早い闇を作っていた。その影から一人と一匹の影が飛び出した。馬を走らせるタムトは焦っていた。太陽が完全に地平線へ姿を消すまでに市場に着かないと、一つの街と無数の命が砂下に消える。部族の代表者としていろいろな会合にも顔を出すようになったタムトには<渡来人>たちのやり方はわかっていた。不自然な砂嵐で市場が消える。<渡来人>たちは犯人を探し出して一族郎党皆殺しにするまで憎しみの火を燃やし続けるだろう。おそらくタムトの部族以外にも手当たりしだいに犯人探しの名目で虐殺が行われる。<渡来人>にとって先住民であるタムトたちは目障りな存在だ。この事件を言い訳にして砂漠の部族全体を一掃するかもしれない。 「あと少しだ、それまで足を持たせてくれよ」  タムトは馬のたてがみを軽くなでると、さらに鞭を振るった。 「なあ、スウスウ、ガラスの噴水を見に行かないか?」  運び屋はようやくスウスウに掛ける言葉を見つけて言った。昼間には強烈な光を放っていた太陽も落ち始め、街角に小さな闇を作っていた。店先や街頭などには灯りが灯され始めていた。  スウスウはぴたりと歩みを止めると運び屋のほうを振り向いた。昼間はくるくると様々な表情を見せていた顔も、今はうつろで青白い表情を張り付け、変化する様子を見せなかった。 「・・・がらすのふんすい?」  スウスウは小さな声で答えた。  運び屋はその暗い表情と力の無い声に驚き、ちょっと戸惑いながらさらに言った。 「あぁ、ここに来る途中の話しで、お前が見たいって言ってただろ? そろそろ日も暮れるし、今の時間なら良いものが見れるぞ!」  運び屋は少し意識して明るく言った。 「うん。・・・見たい」  スウスウはうつろな表情のまま応えた。 「良し、それじゃ行くぞ!」  運び屋はスウスウの手を取ると少し早足で市場の中心にある噴水に向かった。スウスウは少し引きずられるようにしてそのあとを着いていった。  雑多な商店の並んだ道を通り過ぎると、噴水を中心にした広場が眼前に広がる。噴水は大きなもので、下の水たまりはちょっとしたプールぐらいの大きさがある。その真ん中に突き立っているものはきらきらと光る水で出来た樹木のような噴水だ。一流のガラス細工職人を集めて作ったと言われる噴水は中心とする軸からいくつもの枝が美しい曲線を描いて伸び、その先にはキノコのような傘が広がっている。その枝のひとつひとつから水が噴き出し、傘の曲面に沿って滑らかに水の幕を広げていた。すべてがガラスで出来ている噴水はオレンジ色の夕日を受けてきらり、きらりと静かに輝いていた。周りに広がる商店の喧噪が、その噴水の近くでは打ち消されるような、荘厳な美しさに満ちていた。 「どうだ? ちょっと派手すぎるかもしれないが、なかなかのもんだろ?」  運び屋はスウスウの様子を伺いながら言った。スウスウは目を丸くしてオレンジ色に輝く噴水を見つめていた。 「ほら、ちょうど良い時間だったな、珍しいものが見れるぞ」  噴水に松明を持った数人の男が近づいていった。一人の男が噴水の脇にあるハンドルのようなものを回すと噴水の水が次第に少なくなり、ついに止まった。それと同時に松明を持った男たちは噴水の水たまりにじゃぶじゃぶと入ると、傘型の噴水の枝に松明を近づけて中に仕掛けられたランプに火を付けてまわった。すべての枝に火を灯し、松明を持った男たちが引き上げると噴水の脇のハンドルが緩められ、ガラスの樹木からまた水が溢れ始めた。それぞれの枝にオレンジ色の花を咲かせた噴水は揺らめく水面に覆われ、夕闇が広がり始めた辺りに柔らかな光を振りまいていた。  スウスウはその様子をじっと見ていた。口を少し開けて、まさに開いた口がふさがらないと言った様子だ。  なんだか変な様子になっていたが、これじゃまた「すごいすごーい」が始まるかな、と運び屋は思った。 「まぁ、成金野郎が作ったにしてはなかなかのもんだと思わねえか、スウスウ?」  運び屋はスウスウの顔をのぞき込んだ。  スウスウはびっくりした様子でオレンジ色の噴水を見つめていた。運び屋の声も届いていないようだった。  スウスウの見開いた大きな瞳から涙が流れた。褐色の頬を流れ落ち、乾いた石畳の地面に涙は吸い込まれた。スウスウは急に苦しそうな表情をして胸を両手で押さえてかがみこんだ。 「お、おいスウスウ、どうした? どこか痛いところでもあるのか?」  運び屋は慌てて言った。運び屋はスウスウを抱き起こすと噴水の縁のブロックに腰掛けさせた。スウスウは顔を手で覆って座ったままぴくりともしなかった。 「なぁ、どうしたんだよスウスウ? ホームシックか? 今になって故郷の村に帰りたくなったとか?」 「・・・・・・」 「それとも食いすぎでお腹でも痛くなったのか? まぁ、あの食いっぷりじゃ胃袋がおかしくならないほうがオカシいからな!」 「・・・・・・」 「それとも何か俺が悪いことでもしたか? 悪いが俺は女のことが分かってない朴念仁だって良く言われるんだ。何か失礼なことをしてたんだったら謝るぜ」 「・・・・・・」  スウスウは顔を覆ったまま全く反応しなかった。運び屋の男も予想外の事態に困り果てていた。 「あー、じゃぁあれか? メルビのことに気づいちまったのか? 別に嘘をついたつもりじゃないんだ、あれは親方が勝手に勘違いして覚えちまったことでな。お前が馬の名前を先に当てたもんだから言い難くってな、だって格好悪いだろ?」 「・・・・・・」 「なぁ、もうそろそろお前の行く村の使いが来るんだろ? なんとか機嫌を直してくれよ」  スウスウは何を言っても無反応で顔を手で覆ったままの姿勢も変わらなかった。運び屋は掛ける言葉も尽き果て、スウスウの隣でぼんやりと夕日を眺めていた。街角に小さな夜を作り始めた夕日は、その足を地平線に沈み込ませていた。  突然、スウスウは身を起こすと運び屋に向かって笑顔を見せた。その顔には涙のあとがくっきりと付いていたが、何かを吹っ切ったような爽やかさがあった。 「噴水、すごーいね!」  運び屋はスウスウのいきなりの変化に少しびっくりしたが、何とか調子を合わせていった。 「ああ、なかなか綺麗だろ?」 「この街ってすごーいね。美味しいご飯もたくさんあるし、人もたくさん居るし、噴水みたいな綺麗なものもあるし」 「まぁ、その分、汚いものも悪いやつも居るがな」  スウスウは涙のあとの残る顔でにっこりと笑った。 「でもやっぱり、運び屋さんは悪いやつではないでしょ?」 「いや、まぁ、お前がそこまで言うならそうなのか・・・」 「あー! 忘れてたー!」  運び屋の台詞を遮って急にスウスウが叫んだ。 「ど、どうしたんだ?」 「イチゴの水飴漬け!」 「はぁ?」 「イチゴを水飴に漬けたお菓子があるって言ってたじゃん!」 「あぁ、あるけど」 「私まだ食べてない!」 「他のをあれだけ食べたんだからもう良いんじゃないか?」 「だめだめ! イチゴの水飴漬け食べたい! 食べたーい!」  スウスウは足をばたばたさせて子供が駄々をこねるように言った。 「運び屋さん、買ってきて!」 「俺が? 何で?」 「食べたいから! それに村の使いの人がここに来たとき私が居なかったら困るでしょ? 日没には来るって言ってるんだから早く買ってきて!」  スウスウは毅然とした様子で運び屋をびしっと指さしながら言った。  運び屋は内心うんざりしながら立ち上がった。 「はいはい、分かりましたよ。しかし良くまだ食べれるな」 「甘いものはベルバラなの」 「それを言うなら別腹だろ・・・」  スウスウは腕を組んで誇らしげに言った。 「じゃぁ、俺は<ハラペコ通り>に戻ってちょっくら買ってくるからここで待ってろよ。村の使いが来ても待たせておけ。しっかりと荷物を受け渡すまでが運び屋の仕事だからな」 「・・・うん!」  運び屋は商店の雑踏に向かって歩いていったが、突然背後から来た衝撃に歩みを止めた。 「・・・どうしたんだスウスウ。やっぱり一緒に行きたいのか?」  運び屋の腰にはスウスウの細い腕が巻き付いていた。 「こら、くすぐるな! わき腹は弱いんだよ!」 「へへ、運び屋さんに言っておこうと思ってね」  引き剥がされたスウスウはちょっと真剣な顔になった。 「ありがとう、運び屋さん。運び屋さんみたいに優しい人、私はじめて会ったわ。私は運び屋さんのこと、絶対に忘れないから」 「あぁ、その、まぁそれは仕事だからやったまでだよ。確かにこれまでで一番手が掛かる荷物ではあったな」  運び屋はちょっと照れ笑いを見せて言った。 「こんなに手が掛かる荷物は忘れようたって忘れられねえよ」  スウスウはいつもどおりのにっこりとした笑顔をして、運び屋の背中を叩いた。 「じゃぁ、一番大きいイチゴのやつを選んできてね!」 「あぁ、すぐ戻るよ」  運び屋が商店の雑踏の中に踏み込んでから後ろを振り返ると、オレンジ色の噴水の根本にスウスウの小さな影が手を振っているのが見えた。運び屋は、さてイチゴの水飴漬けの屋台はどこにあったっけ、と考えながら<ハラペコ通り>へと足を進めた。  運び屋が雑踏の中に消え、姿が見えなくなりしばらくたった頃、スウスウは一人で呟いた。 「ごめんね運び屋さん・・・」  そしてスウスウは何かを吹っ切るように石畳の街路を駆けだした。  イチゴのお菓子は無事に買えたが、夕方の商店街の雑踏に阻まれ、運び屋はなかなか噴水まで進めずにいた。日差しが弱まり涼しくなった夕方から、本当の市場が始まる。人混みは増えこそすれ減ることはなかった。  人の固まりが目の前にあってなかなか前に進むことが出来ない。運び屋はいらいらしながら自分のすぐ横にある商店に目を留めた。そこで運び屋はふと思いついた。 「まったく、何やってんだ俺は・・・」  運び屋は懐から財布を取り出した。  運び屋がガラスの噴水に戻ったとき、スウスウの姿は無くなっていた。何度もぐるぐると噴水の周りを回ったが運び屋にはスウスウを見つけられなかった。 「どうなってんだこれは?」  運び屋は串に刺してあるイチゴの水飴漬けを持ちながら噴水のブロックに座り途方に暮れた。スウスウがやっぱり魔法の修行が嫌になって逃げたのか? それともまた<ハラペコ通り>に行ってるのか? どちらも違う、運び屋は呟いた。そもそもさっきのスウスウは様子がおかしすぎた。しかしいったい何処に行っちまったんだ? 運び屋は噴水脇で考え込んでいた。 「甘いものがお好きなのかしら?」  急に話しかけられて運び屋が顔を上げるとそこには黒い服を着て赤いベールで顔を包んだ女性が立っていた。耳をくすぐるような艶めかしい声だった。ベールから覗く目は長いまつげとアイシャドウに縁取られ、潤んだ瞳が運び屋に注がれていた。  赤いベールの女性は運び屋のすぐ横に座った。ふわりと香水の良い香りが運び屋の鼻を撫でた。運び屋はちょっと緊張してぐっと唾を飲み込んだ。 「誰か人をお待ちなの?」 「あ、いやそうじゃない。ちょっと連れとはぐれちまって」  女性はその言葉を無視して運び屋の足に手を載せた。運び屋は足を緊張させないように気を使った。 「はじめの質問にお答えになってないわね」 「甘いもののこと!? 甘いものは、好きですよ」  女性は運び屋のほうに顔を近づけた。手を載せた足に体重が掛かるのを運び屋は感じた。 「そのイチゴ飴より甘いものを食べてみたくないかしら・・・?」 「それは・・・、どういうことで?」  女性の顔はベール越しに吐息が届くぐらい運び屋に近づいていた。足に載せられた手のせいで運び屋は逃げられない。 「そこまで私に言わせるの?」 「その、こういう事態は初めて接近遭遇するわけで・・・、何がなにやら」 「そうなの、ちょっとかわいいわね。それじゃ教えてあげる・・・。何よりも甘いもの、それはね・・・」  女性は大きな瞳を瞬かせた。 「わ・た・し ・・・・・・・・・ぷー、駄目だわ、もう無理!」  女性の潤んだ瞳は急に笑いの表情を浮かべると、顔を離し大声で笑い始めた。運び屋が両手にイチゴ飴を持ったまま呆然としていると女性はベールを取って顔を見せた。 「アルカ! どーいうつもりだよ!」 「どういうつもりって、からかう以外の理由があるの? それにしてもあのドギマギした表情、傑作だったわ」  アルカは笑いすぎてせき込むまで笑い続けた。その横で運び屋はムスっとした表情のまま黙っていた。 「ゴホゴホ、もういい加減笑い死ぬわ、ここ数年で私の命を脅かした最大の攻撃ね」 「もういいだろ。それより何でそんな格好してるんだ? メスゴリラのミスコンでもあるのか?」 「そのメスゴリラにドギマギしてたくせに! もうぜ~んぜん悪口になってませーん。私も別にあんたをからかうためにこんな格好してきたわけじゃないわ。これは『対出資者特別決戦モード』なのよ。お店の新しい出資者を引っかけるための武装。今夜の対戦相手はお金持ちだけど時間にルーズなのが玉にきずなのよね。まぁその時間つぶしに使わせて貰ったって訳よ」  運び屋はちょっと真面目な表情になって言った。 「その、・・・店の経営は苦しいのか? そんなに無理しなくても団員から金を集めれば」 「あー! あんた何かすごい勘違いをしてるわね。大丈夫よ、最後のカードは最後まで切らないから切り札になり得るのよ。アルカ姐さんの操はダイヤモンドより硬いのよ!」  アルカは笑顔を見せると思いっきりウィンクをした。 「それよりあんたはスウスウちゃんとはぐれちゃったの? あの子はしっかりしてそうだったから迷子になるとは思えないし」 「それは俺にもさっぱり分からなくて。はぐれる前に様子が変だったことは確かなんだけど」 「それじゃアルカ姐さんが聞いてあげましょう、時間つぶしに。全部話してみなさい!」  運び屋はスウスウが急に黙り込んだこと、噴水を見て突然泣き出したこと、そのあと笑顔を見せたことを説明した。 「ふーん、それで全部?」 「ああ」 「それじゃそのイチゴ飴をこっちに渡して噴水のほうを向いて立って」  アルカは完璧な笑顔を作って言った。 「なに? どういうことだ?」 「いいからいいから」  運び屋はアルカの言うとおりにイチゴ飴を渡して噴水の端で噴水のほうを向いて立った。 「そうだな、ちょっとお辞儀してみてくれる?」 「お辞儀? こうか? なぁこれにいったい何の意味が――」  アルカは運び屋の尻を全力で蹴飛ばした。運び屋は噴水の水たまりに頭から突っ込んで溺れそうになりながら這い上がった。 「バ、バカヤ――」 「バカヤローはこっちの台詞だ!」  噴水の外側には腕を組んで仁王立ちになっているアルカが待っていた。その後ろを通りかかった酔っぱらいが茶々を入れた。 「ウィック、おぉ痴話喧嘩か、威勢がいいね若いねー」  アルカは振り返りもせずに酔っぱらいを恐ろしく低い声で怒鳴りつけた。 「うるさい黙れ近づくな息もするなぶちころがすぞ」  酔っぱらいは慌てて人混みの中に逃げて消えた。  運び屋も気が付いた。いつもの陽気なアルカではない。星トカゲ舞踏団を作り上げたときと同じ辺りに野放図な殺気をまき散らかす野獣のような女ボス。本気で怒っているということだ。  アルカは運び屋の胸ぐらを掴むと力任せに引き上げた。 「おまえ、あの子が何度も出していたSOS信号に気づかなかったのか? 死に値する愚鈍さだな」  アルカはずぶ濡れの運び屋を地面に投げ捨てると近くにあった露天商に向かって歩いていった。目を付けられた露天商は逃げることもできずアルカの発する異様な気配にがたがたと震えていた。アルカは露天商の胸ぐらを掴んで引き起こすと言った。 「あのずぶ濡れの男と一緒にいた女の子はどこに行った?」 「あ、あっしには何のことやら、ハゥ!」  アルカの片手が露天商の股間を万力のように締めあげた。 「返答には気を付けろ。町中では見ない衣装をしていたから記憶に残っているはずだ。3秒以内に思い出せ。でないと性別が変わるぞ。3、2、」 「思い出した! あっちだ、あの男と別れたあとすぐに裏通りのほうへ走っていった!」  アルカは露天商から手を離すと運び屋のほうへ戻っていった。 「分かったぞ。裏通りだ。死ぬ気で追いかけろ」  運び屋は噴水に蹴り入れられたショックも冷めやらず目を白黒させていた。 「SOS? 何のことだかわからねぇよアルカ」  アルカはため息を吐くとしゃがみ込んで運び屋に話しかけた。 「あんたは本当にバカなようだね。いちいち説明しなきゃわかんないのか? なんでスウスウちゃんは黙り込んだんだ? 何か余計なことを言ったんじゃないのか?」  運び屋はそのときの会話を思い出した。そうだ、俺は背中の入れ墨のことを聞いた。それからだ、黙り込んだのは。 「それからこの噴水を見て感動して涙したって? そのあと急に機嫌が直ったって? 本当に信じてるのか?」  確かにスウスウなら感動して涙するより「すごいすごーい」って騒ぎ立てるほうが似合っている。 「・・・しかし何でそのあとあんなに明るく振る舞ったりしたんだ?」  アルカはいらいらと頭を掻きながら叫ぶように答えた。 「演技に決まってるでしょうが! おまえを心配させないための」  運び屋は急にスウスウのことが心配になり立ち上がった。その拍子に運び屋の懐から何かきらきらしたものがこぼれ落ちた。運び屋はそれを拾い上げて確かめた。石の表面には細かい模様が彫ってある。間違いない、スウスウが母親の形見だと見せてくれたペンダントだ。 「そうか、抱きついてきたときに・・・。変だとは思ったんだ」  運び屋の脳裏にスウスウとのいくつかの会話が浮かんだ。悪い予感がどんどんと膨らんでいく。 「ようやく分かったか?」  運び屋は真剣な顔で頷いた。 「なら裏通りに向かって死ぬ気で走れ!」  運び屋は考えを巡らせながら走った。スウスウはこの街の地理には詳しくない、行くとしても場所は限られている、この通りを行くとしたら・・・。  走り去る運び屋の後ろ姿を見送りながら、アルカはようやく怒気が治まっていくのを感じた。そのとき後ろから声を掛けられた。 「もしかしてアルカさんですか?」  振り返ると身なりの良い中年の紳士が立っていた。アルカは襲い掛かるヒョウのように素早く『対出資者特別決戦モード』に自分を切り替えた。 「あらアルジャーンさん! 今夜はお食事にお招きいただいてありがとうございます」  中年紳士は立派な口髭を撫でながら戸惑った様子で言った。 「急な仕事が入ってしまって時間に遅れて申し訳ない。それにしても周りの様子が変ですな。何か騒ぎでもあったんですか?」  アルカは先ほどの仁王のような表情とは似ても似つかない可憐な表情を作って言った。 「さぁ、私もさっき来たばかりですから分かりませんわ。それよりも早くレストランに行かないと時間がなくなってしまうんじゃないかしら」  二人が連れ立って広場から離れるのを先ほどの不幸な露天商が呆然とした顔で見送っていた。 「・・・死んだ親父がよく女は悪魔だって言ってたけど、悪魔じゃ生ぬるいよ、親父」  運び屋が運び屋組合の事務所に息を切らせて走り込むと、親方の怒号が浴びせられた。 「お前、あのお嬢ちゃんに何をした! あんなに血相変えて走ってきて馬を貸してくれなんて尋常じゃないぞ!」 「はぁはぁ、親方、その話しはちょっとあとにしましょう。ふー、俺の馬はスウスウが乗っていったってことですか?」  親方は憤然としながら頷いた。 「おい誰か馬を貸してくれないか! 緊急事態なんだ!」  運び屋は奥の休憩所でだべっている同僚に向かって叫んだ。のっぽの男が手を挙げた。 「俺の馬ならさっき帰ってきたばかりだから、鞍もついたままだぞ」 「悪いな! 恩に着る!」  運び屋は身を翻して事務所から飛び出した。のっぽの男がぽかんとした顔で親方に尋ねた。 「親方、あいつどうしちゃったんですか? いつものらりくらりと適当に生きてる奴が」 「なぁに、男にゃきっぱりとけじめを付けなきゃならん時があるということだ」  親方は少し満足げに言った。 【5.砂嵐】  砂上には真新しい馬の足跡が付いていた。まっすぐに市場を離れる方向に向かっている。スウスウと運び屋が来た道をちょうど逆に戻る方向だ。運び屋はそびえる砂丘の頂上に向かって馬を走らせた。  夕日はその姿を半分まで地平線に潜らせていた。  砂丘の頂上で、遠くにある細長い川の走る崖を隔てて一頭の馬と一人の少女が居るのを確認した。 「スウスウ!!」  運び屋は砂丘の頂上から小さな人影に向かって叫んだ。川の向こう側にいる少女はびくりと身を震わせたがそのまま身動きをしなかった。運び屋は必死で馬を川にかかる橋の袂まで走らせた。だんだんと大きくなる人影は、少しうつむき気味だがまっすぐに立っていた。しかし遙かしたにある水面を眺めるように崖の突端に立ち、いかにも危なっかしい。スウスウの一歩先には水面まで数十メートルの高さがある崖が広がっている。  男は橋の袂に付くと馬から飛び降りた。 「スウスウ! ほら、市場へ戻るぞ! こっちへ来い!」  スウスウは男の声には反応する様子を見せなかった。運び屋が橋を渡りスウスウの居るほうへ行こうとすると初めて声を上げた。 「来ないで! 市場へ戻って!」  運び屋はスウスウの剣幕に押されて橋から下がった。 「どうしたんだ、スウスウ?」  運び屋は静かに尋ねたがスウスウは沈黙をもって答えた。 「・・・なぁ、俺は頭が悪くてお前がどうしてこんなことしてるのかは良く分からないんだ。だが、ただのわがままじゃないことはこれを見て良く分かった」  運び屋は懐からガジール石のペンダントを取り出し、スウスウに向かって掲げた。地平線からの夕日に照らされて、ガジール石はきらりと光った。  スウスウはわずかに動揺して小さな声を出した。 「・・・それ、ちゃんと持っていてね」 「いや、駄目だ。これはお前の母親の形見だろ? 街の観光案内料にしては高すぎるぜ。なんでこれを俺に渡したんだ? わざわざ俺に気づかせないように演技してまで」  スウスウは下を向き、服の裾を強く握って何かに耐えているような様子を見せていた。そして、絞り出すように呟いた。 「運び屋さんには、生きていてほしかったから」  運び屋は予想外の答えに言い返す言葉が見つけられなかった。 「そのペンダント、砂嵐避けのお守りだって言ったでしょ? だからもし街まで砂嵐が届いてしまったとしてもそれを持っていれば、砂と風から身を守れるの」  運び屋は勢い込んで言い返した。 「なんだそりゃ! どこに砂嵐があるっていうんだよ。俺は砂漠の運び屋を長年やって居るから砂嵐の恐ろしさは分かっているし、その前兆だって分かるんだ。断言するがここの近くには砂嵐の前兆も何も無いぞ」  スウスウはすっと顔を上げ運び屋を見つめるとはっきりと言った。 「私が砂嵐なの。もう少しで太陽が大地に沈む。それと同時に私は砂嵐、いえ大砂嵐になって周りのすべてを吹き飛ばし砂に埋めることになるわ」  スウスウの顔が悲しそうに歪んだ。 「だから・・・、だから早く市場へ戻って!」  運び屋は呆然と立ち尽くした。 「おい、何を言ってるんだスウスウ? お前が砂嵐になるだって? いくら何でもそんな嘘に騙されるほどガキじゃないだ俺は!」  運び屋の叫び声がスウスウとの間を隔てている渓谷にこだました。  太陽はその身を半分以上大地へ沈ませ、水平な橙色の光を放っていた。渓谷の底には夕日の届かぬ影が広がり、運び屋とスウスウを漆黒の闇で分断していた。 「・・・入れ墨が」 「なんだ?」 「私の背中に入れ墨があるって言ったでしょ?」 「あぁ、それがどうしたんだ?」 「どんな模様だった?」 「えっと、丸の中に大きな卍があったのは覚えてるが、あとの細かい模様は忘れちまったな」 「それで十分!」  スウスウは笑顔を作った。その裏に悲しみの表情を張り付けて。凍り付いた感情を隠し。 「昔、お婆様が隠してた魔術書を読んだことがあるの。禁術の本よ。その中に書いてあった。卍の入れ墨を使って人間を砂嵐の爆弾にする禁術」 「お前・・・」 「はっきり覚えてるわ、ドキドキしながら読んだんだから! 子供のころに彫って、徐々に力を入れ墨に溜めていく、そして決められた日の日没に、バーン!! 大爆発よ! 威力は街ひとつを悠々砂に沈められるくらい。すごいでしょ!! 私があの街に居たままだったら、あのきらきら光るガラスの噴水も一瞬でバラバラにして砂に沈められるのよ! あのゲネル屋さんもタイヤキ屋さんも着物屋さんも銀細工屋さんもカフェにいたおじいちゃんたちやアルカさん、運び屋さんの親方さんも女将さんも、あの<ハラペコ通り>に居た人全員だって砂に沈められるのよ・・・」  スウスウは張り付けた笑顔の仮面を必死に押さえつけようとしたが、隙間から悲しみがこぼれ落ちた。砂の上に涙がぽつりぽつりと落ちては乾いた砂に吸い込まれていった。 「本当にそうなのか?」  運び屋は慎重に聞いた。 「・・・運び屋さんに聞くまで、私は自分の背中に入れ墨があることも知らなかったのよ。もし別の安全な魔術だったとしたら何で今まで隠していたの? 私は魔術の勉強ばっかりしてたから他の子と遊んだこともほとんどないし、部屋には鏡も無かった。きっとお婆様が私に気づかせないようにしてたんだわ。あぁ、お婆様、お婆様なんで・・・」  スウスウは顔を覆って泣き伏せた。この世で唯一の身内に裏切られた。いや裏切りですらない。私は始めからこのために引き取られ育てられたんだ。スウスウの心をやるせない思いが駆け抜け、重い鎖のように縛った。  運び屋は呆然と立ち尽くしていた。脳裏に砂漠でキャンプをしたときにスウスウが見せた火の魔法が浮かんだ。スウスウの言っていることは本当なのかもしれない、運び屋はそう思い始めていた。  じとりと、運び屋の奥底に閉じこめていたものが動き出した。 「・・・なぁ、スウスウ。俺の名前を知りたくないか?」  スウスウは唐突な質問に驚いた様子を見せたが、無言で頷いた。 「俺の名前は、メルビだ」 「それは馬の名前・・・」 「そうだ、この馬と俺は同じ名前なんだ。ちょっと恥ずかしくてな、ついお前に名前を聞かれて誤魔化しちまったんだ」  運び屋メルビは傍らに寄り添うように立っている馬の鼻面を撫でながら言った。 「俺はこいつに乗って逃げた。半死半生で砂漠をさまよっているときにあの親方に拾われたんだ。始めに名前は何だって聞かれてこの馬の名前を答えちまったんだ。なぜだか分かるか? それまで俺に名前を尋ねるやつなんて居なかったからだ! 俺が奴隷として働いていたときの主人は奴隷の名前なんかにゃ興味がなかったんだな。俺自身も自分の名前なんて忘れていた。だがあいつらが今度生まれた馬にメルビって名前をつけると話していたのは覚えていた。異国の言葉で”幸運 ”って意味らしい。俺には一生縁の無い言葉だと思って、だから覚えていた」  じとりと。 「あの親方は命の恩人ではあるが、あのじじいにゃこき使われたからな! もう十分恩返しは済んでお釣りがくるぐらいだ」  じわりと、メルビの心に黒いシミが広がった。 「スウスウ、お前は今日の少しの時間しかあの街を見ていないだろ? <ハラペコ通り>やガラスの噴水しか見ていない。俺は親方に拾われてすぐの頃にいろんな使い走りをやらされて、あの街の表も裏もたくさん見た」  そのシミは、奴隷小屋の片隅、黒曜石のナイフの漆黒、皮の腕輪の内側からにじみ出ていた。 「あの街にもスラムがある。汚いじじいがゴミを拾いながら暮らしてる。捨てられた子供が屋台の食べ物を盗んで殴られている。アルカはいろいろやっているがそれでも限界がある。立派な家で綺麗な身なりをした奴らは見て見ぬ振りだ」  運び屋メルビの心の中に黒いシミが広がっていた。それはこれまで隠していたもの、忘れようとしていたもの、無視しようとしていたものからにじみ出てきたものだ。 「なぁ、スウスウ、街へ戻ろうぜ。あんな街も人間も全部バラバラにぶっこわして砂漠の砂で綺麗に沈めちまおうぜ。なぁに心配するな、俺も一緒に死んでやるよ。こんな世界をぶっ飛ばして死ねるなら悔いはない。スウスウ、一緒にこの世界をぶっこわしてやろうぜ」  スウスウはそんなメルビの様子を静かに見ていた。  メルビはさらに続けた。 「俺は砂漠でキャンプしたときにお前に、大人になれば上手く心の整理がつくって言っただろ? 悪いがあれは大嘘だ! 一度付いた傷はずっと無くならない。何とか痛みを誤魔化す方法を覚えるだけだ。何かの拍子にそいつはすっと現れてまた暴れまわる。俺だって両手首の痛みで夜中に飛び起きることなんてしょっちゅうだ。お前が母親を殺されたときの後悔だってずっと無くならない。大人になれば、どうにかそれを舞台裏に押し込めるのが上手くなるだけだ。心の整理なんて一生付かない。だから、全部、ぶっこわしてやろうぜ。何もかも、汚いものも綺麗なものも一緒くたに砂に沈めてやろう。これで全部ご破算、また一から始められるんだ」  スウスウは何も言わず無表情でメルビを見ていた。 「だから、一緒に、街へ行こう――」  そのとき、がさりとメルビの足下で音がした。紙袋がメルビの懐から足下の砂上に落ちた音だった。  スウスウが聞いた。 「その紙袋は何?」  メルビは戸惑い、少し恥ずかしそうに答えた。 「これは・・・、ちょっとした気の迷いなんだ。あのときあそこで道が混んでなければ・・・、いやどうでもいい! お前のだ!」  メルビは紙袋を拾い上げるとスウスウの方に向かって紙袋を放り投げた。紙袋は渓谷の上をくるくる回りながらスウスウの手元に着地した。  スウスウはびっくりした顔でメルビに聞き返した。 「これ、開けても良いの? 私のもの?」 「あぁ、冥土のみやげとでも言って渡そうと思ってたんだが、詰まらねえ冗談になっちまったな」  スウスウは慎重に紙袋を広げ、中に入っていたものを取り出した。 「わぁ、これ! 私が欲しかったベールの!」  スウスウの両手には薄い紫色のベールが広がっていた。細かい刺繍が施され、裏が透けるほど薄い生地に花や幾何学模様が広がっていた。スウスウは店先で触っていたときと同じようにベールを頭に被せてみた。 「ありがとう! 運び屋さん、じゃなくてメルビさん」  スウスウの顔には昼間の街で見せたような笑顔が広がっていた。それは年相応の少女の無邪気な笑顔だった。スウスウは嬉しそうに何度もその場でくるくると回った。それに合わせるようにベールがふわりと浮き上がり、緩やかなダンスを見せる。そのダンスはスウスウの心に張り付いた鎖を、少しだけ緩めた。 「いまさら”さん”はいらねえよ。メルビで良い。それよりもこれから、スウスウ、どうするんだ?」  スウスウは回るのをぴたりと止めてメルビの方を向いた。静かに目を閉じ、じっと立っている。しばらく沈黙が続いた。 「なぁ、スウスウ・・・」 「私は街へは行かないわ。ここで果てる。そう決めたの」  スウスウは瞳を開き、毅然とした表情で言った。スウスウは言葉を続けた。 「私は、日が落ちると同時に砂嵐になって果てる。それはもうどうにもならないこと。ここに居ても街に行っても同じ」 「なら街に行こう。あの呪い婆の思い通りになるのはちょっとしゃくに障るが、お前を砂嵐の爆弾に変えるような世界をひっくるめてぶっこわしてやろうぜ。じゃないとお前は一人で・・・」 「一人で死ぬことになる? それも何の役目も果たさず無駄に死ぬことに?」  スウスウは微かに笑みを浮かべながら口を挟んだ。メルビは苦しそうな顔をして先を続けた。 「そうだ。一人で死ぬ。お前は生まれる前に父親を亡くし、母親も亡くし、育ての親の婆はお前を殺す魔術をかけた。このままではお前はすべてを無くして、何も得ることが出来ずに自分自身も無くしちまう。そんなの・・・」  メルビは涙を流していた。メルビの心に広がった闇は涙を隠していた。ひとりぼっちで手錠を填められ泣いている子供の涙を。 「そんなの寂しくないのか!?」  メルビの嗚咽が夕日射す砂漠に響いていた。 「だ、だから俺が一緒に死んでやるって言ってるんだよ! 俺も一人だからな!」  紫のベールに縁取られたスウスウの影がゆっくりと口を開いた。 「私は一人じゃないわ。お父さんもお母さんも死んじゃったけど、お婆様と・・・」 「そいつはお前を殺す魔術を掛けたんだぞ! お前を道具にして・・・」 「私は信じたいの! お婆様のがさがさの手の温かさを、熱を出したときに飲ませてくれた薬草茶を、魔術を教えてくれたときの厳しさを」  スウスウは何かを堪えるように両手を握りしめ叫んだ。 「私はこの世界が綺麗なものだって信じて死にたいのよ! お母さんの暖かさも、お婆様の厳しさも、メルビが見せてくれた砂漠も、<ハラペコ通り>の屋台も、ガラスの噴水の明かりも・・・、全部綺麗だった。  ねえメルビ、あなたの言うとおりにこの世界は本当は汚いものなの? それともメルビが見せてくれたように綺麗なものなの? 分からない、本当に知るには時間が足りない。私は特に時間が足りないみたいだけど、本当のことを知ることは誰にも出来ないんじゃない? だから私は今まで見て触って感じたことを信じる」  スウスウは震える手を押さえながらぎこちない笑みを浮かべはっきりと言った。 「メルビ、この世界は綺麗だわ。とっても綺麗。とても壊すことなんて出来ない」  メルビには何も言い返す言葉がでてこなかった。  スウスウはメルビを見つめながら言葉を続けた。 「それに私は一人じゃない。メルビ、あなたが来てくれた。しかも一緒に死のうだなんて言ってくれた! まるで、まるで恋人同士みたいね! それとも年が離れてるし親子かな?」  メルビはようやく絞り出すように声を出した。 「俺は、ただの運び屋だ。運び屋と荷物、ただそれだけだよ」 「うそつきー! どこの運び屋が荷物にこんな綺麗なベールを買ってくれるのよ!」  スウスウは楽しそうに笑い声を上げた。メルビも小さく、次第に大きく笑い声を上げた。夕日の反対側にはすでに夜の闇が広がり、太陽の光も弱々しくなっていた。  タムトは砂の上を自分の足で走っていた。息を切らし、もつれて砂に埋もれる足を必死に引き上げながら走っていた。馬は市場を目前にして座り込んだままいうことを聞かなくなった。しかたなくタムトは自分の足で走ることにした。  砂漠の砂の上を走ることは予想以上に体力を消耗し、幾度も足をもつれさせて転んだ。そのたびに懐に入れた砂嵐の魔術を解く薬を庇い、再び起きあがって走り続けた。  タムトの背後では太陽がその最後の尻尾を地平線に見せて沈みつつあった。日没までに市場に着き、スウスウを見つけてこの薬を飲ませなければ巨大な砂嵐がひとつの街を砂に沈めることになる。それは大量の人が死ぬと同時に、<渡来人>とタムトの部族の戦争が始まることを意味する。  だからこそ、俺はここで足を止めることは許されない、タムトは自分自身に言い聞かせた。背後から射す次第に薄暗くなる夕日が、死に神の招く無数の腕のように感じられる。 「あの砂丘を越えれば、市場への入り口の吊り橋が見えるはずだ」  タムトは独り言を言い覚悟を決めると、砂丘に取り付き両手と両足を使いながら登り始めた。  笑い声はすでに消え、渓谷を挟んだ二人と一頭の間には沈黙が広がっていた。ベールを掛けたスウスウの背後を最後の夕日が照らし、一人の少女の影絵を映し出していた。紫のベールに縁取られ、大きな瞳だけが見える影絵の顔、その背後には波のような模様を刻んだ砂丘がそびえている。その前には暗くなり底が闇に沈んだ谷が広がり、底に流れる川の水音がかすかに聞こえてくる。  谷を挟んだ反対側には運び屋メルビと馬のメルビが並んで立っていた。運び屋メルビの首にはガジール石のペンダントが掛けられている。一人と一頭は眩しそうにスウスウを見つめていた。 「そろそろ、ね」  スウスウは後ろの夕日をちらりと振り返って見ると小さな声で呟いた。 「そうだ、な」  メルビも応えるように呟いた。それ以上、二人は交わす言葉を見つけられなかった。馬のメルビは心持ち心配そうに嘶いた。その鼻先を運び屋メルビが優しく撫でた。 「ねえ、メルビ! あ、運び屋さんの方ね。私が噴水の前で最後に言った言葉を覚えてる?」 「さぁ、なんだったかな。そういえばイチゴと水飴の菓子を置いてきちまった。悪いな」  スウスウの影絵はいかにも怒ったように両手を腰に当てて文句を言った。 「まあ! 持ってきてくれれば良かったのに! それが一番の心残りね。それより、私はこう言ったのよ、メルビはとっても優しい人だって」  メルビは力無く笑った。 「ふん、俺はただの運び屋の男だ。一人やもめで、友人はいるが親しいものはいない。親方も育ての親と言うより雇用主ってかんじだな。スウスウ、お前だけがたまたま特別扱いだったんだよ」 「アルカさんは?」 「アルカ!? あのメスゴリラか? あいつはただの腐れ縁だ。下僕と支配者だな」 「うふふ、嘘ばっかり! 少なくともアルカさんはメルビのことをすごく気に掛けてると思うな。メルビのお姉さんみたいに」 「それが迷惑なんだよ。世話好きなメスゴリラってのはちょっとした恐怖だぞ」  スウスウは真剣な表情になった。メルビには少し大人びた表情にも見えた。 「メルビ、アルカさんは必要なことをやっているだけだよ。メルビは優しいけど、すごくグラグラしているところがあるんだと思うな。ほら、さっき一緒に街へ行こうって言い出したときみたいに」 「・・・・・・」 「アルカさんと喫茶店でダンスをしたとき、メルビはすごく寂しそうな顔をしてた。なんだかある日突然いなくなっちゃうような、帰ってこなくなっちゃうようなそんな顔をしてた」 「――俺は『そちら側』へは行けないって思ってたんだ。ダンスを踊る側にはな。スウスウがあっという間に飛び越えた線を俺は何年たっても飛び越えられない。今までずっとそうだった。そのことを考えていたんだ」 「そんなことない! そんなことないよ」  スウスウは穏やかな笑みを浮かべた。 「だってメルビはここまで来てくれた。ちょっと驚いたけど、一緒に死のうなんて言ってくれた。もうとっくに『こちら側』に来てると思うよ。だからあとは――」  メルビはスウスウの言葉を遮って言った。 「いや、俺は――」  スウスウは耳をふさいで首を横に振った。 「だからあとは! メルビが決めて。メルビは生きている、明日も明後日も生き続けている。だからあとはどうやって生きるか決めて。メルビはいつも後悔しているみたい。もういいよ。私がそんなの吹き飛ばしてあげる! 砂嵐と一緒に抱えている後悔を捨てちゃって」  スウスウは微笑みに一滴の悲しみを垂らした表情でメルビを見つめていた。メルビはその視線を受け止めきれず思わず目線を外したが、覚悟を決めるようにスウスウを見つめなおすと言った。 「出来るかどうかは分からない。でもやってみることは約束するよ」  スウスウは嬉しそうに曇りない笑顔を見せた。 「ふふ、これで心配なことはなくなったわ! これでようやく――、行ける。あ、そうだ!」 「何だ? 何か忘れたことでもあるのか?」  スウスウは頭に掛けたベールをひらひらさせながら言った。 「このベール、とっても素敵だわ」 「そんなことか。そりゃ良かったな」  スウスウはメルビをじっと見つめ続けていた。 「メルビは『気の迷いで買った』って言ってたけど、本当はどうして買ったの?」  メルビは戸惑うようなそぶりを見せながら黙っていた。 「なんで特別扱いだったの? お願い、私の時間は少ない、今教えて」  メルビは照れ隠しをするように頭を掻くと言った。 「お前も俺も一人だからな! 親を亡くして育ったのも同じだ。単なる同情だよ、それだけだ!」 「・・・本当にそれだけ?」  スウスウの影が小首を傾げ、大きな瞳でメルビを見つめながら問いかけた。  メルビはしばらく黙っていたが、恥ずかしさを勢いで隠すように叫んだ。 「お前が好きだったからだよ! 言っとくが俺はガキに欲情するような変態じゃないぞ。好きって言うのは、恋人じゃなくて友人じゃなくて、もっとシンプルな・・・」 「親子、みたいな感じ?」  メルビは照れ隠しの不機嫌な表情を張り付かせたまま勢い良く頷いた。  スウスウは大きな瞳を三日月のようにして笑顔を見せた。 「ふふ、私も最後にひとつだけ秘密を告白するわ。砂漠で一晩過ごしたときに私、メルビの懐に入って寝たでしょ? あのとき思ったんだ、お父さんに会ったことは無いけど、お父さんてこんな感じなのかなって」  スウスウの三日月の瞳から一筋の涙が流れた。 「ありがとう、メルビ。私はもう行かなきゃ。もう夕日も消えるわ」  スウスウは渓谷の絶壁に向かってゆっくりと歩きだした。  メルビはその様子を見て声にならない叫びを上げた。何か言わなくてはならない、でも言葉が見つからない、そんな苦しみをメルビは感じていた。  スウスウは絶壁の一歩前で迷うように歩みを緩めた。そしてメルビを見ていった。 「メルビ、運び屋さんとその馬のメルビ、ありがとう、さようなら」  メルビは吐き出すように叫んだ。 「ス、スウスウ、そのベール、すごく似合ってて綺麗だぞ!」  スウスウは少しびっくりしたが、嬉しそうに微笑んだ。 「ありがとう、メルビ・・・」  そしてスウスウの足は虚空に向かって歩を進めた。  ベールが風にあおられふわりと靡くと、スウスウの小さな身体が巨大な渓谷の闇に向かって落ちていった。  メルビは渓谷の絶壁に取り付くと落ちていくスウスウを見た。スウスウの身体が闇に飲み込まれると同時に地平線の夕日は消え去り、すべてを闇が包んだ。その中でスウスウの身体が金色の光を発し、巻き込むように周りの空気を吸い込み始めた。メルビは自分の身体が持って行かれないように必死で崖にしがみついた。金色に光っていたスウスウの身体が崩れるように形を失い、それと同時に豪風が渓谷から吹き上げた。メルビは吹き飛ばされないように愛馬にしがみついて風に耐えた。  ふいに風が止んだ。メルビとその愛馬を中心とした半球型の空間が風を遮るシェルターのように砂嵐から身を守っていた。メルビの胸に下げたピンク色のガジール石が光を放っている。メルビはスウスウがこのペンダントを砂嵐避けのお守りだと言ったのを思い出した。  渓谷から吹き出した渦巻き状の豪風は崖を削り川の水を吹き飛ばし、巨大な渦巻き型の風を巻き起こしていた。その風には削り取った崖の破片や水の他に、金色の砂が混ざり、きらきらと光っていた。  豪風の中のシェルターで、メルビはその金色の光をしっかりと見つめていた。  突然吹いてきた突風にタムトは吹き飛ばされ、砂丘の斜面をぐるぐると勢い良く落ちていった。砂丘の下でタムトは黄金色に輝く巨大な砂嵐を見た。すぐにタムトのもとまで風と砂の攻撃が始まり、息をするのも難しくなった。布で顔を覆い、弾丸のように叩きつける砂粒に耐えながら、タムトは自分が遅すぎたことを知った。  もうすべてがおしまいだ、街はこの砂嵐に沈みつつある、俺の薬が間に合わなかった。そう思いながらタムトは砂と風に飲み込まれ、気を失った。  タムトが砂に半ば埋まりながら気がついたときには、すでに砂嵐は収まり辺りは夜の静寂を取り戻していた。タムトは絶望感の中、あてもなく目の前の砂丘を上り始めた。何度も転びながら砂丘の頂上に着くと、タムトは驚愕した。砂丘を下った先にある渓谷は隕石あとのクレーターのようにえぐり取られ、荒々しい傷跡を晒していたが、その先にある市場の家並みには何も変化が見られない。タムトは自分の見た風景が信じられず、呆然と砂丘の斜面を滑り降りた。  砂丘を降りてえぐり取られたクレーターのすぐ端までタムトは近づいた。反対側の岸も同じようにえぐられているが、クレーター跡の中に不自然に傷ついていない場所があった。そこには一頭の馬と、それに包み込まれるように寄りかかって倒れている男がいた。 「おい、あんた! 起きてくれ! ここで何があったか知りたいんだ!」  タムトは男に向かって叫び声を上げた。  男はむくりと起き上がりしばらくタムトの姿を見ていると、同じように叫び声で問い返した。 「もしかしてスウスウと同じ村の奴か?」  タムトは少し驚きながら頷いた。 「スウスウならもういないよ。飛んで行っちまった」  男は面倒くさそうに言った。 「どういうことだ? ここで何があったんだ? 頼むから教えてくれ!」  男は訥々と一部始終をタムトに話した。  タムトは後悔に身を焼かれ、膝を突いて叫んだ。 「なんということだ! 俺の薬が間に合っていればスウスウは死なずにすんだはずなのに・・・!」  男はぴくりと反応した。 「薬だって? なんの薬だ? まさかあの呪い婆から貰ったのか?」  タムトは頷き、懐から瓶を取り出してみせた。 「なぁ、それはもう要らないんだろ。ちょっと俺に貸してくれないか?」  タムトは不思議に思ったが、男の方に瓶を投げた。  男は瓶の中身を振ったり眺めたりしていたが、ふいに瓶の口を開けるとぐいっと中身の液体を飲み込んだ。  タムトは慌てて言った。 「バ、バカ! 魔術の薬は健康な人間には毒になることもあるんだぞ!」  男は平然とした様子で答えた。 「へえ、そうかい。これを飲んで身体を壊すんなら、市場の人間はとっくの昔に全員死んじまってるはずだな」  男は薬の瓶をタムトに向かって投げ返した。 「お前も飲んでみろよ」  タムトは躊躇したが、男の平然とした様子を見て、恐る恐る口を付けた。 「これは・・・! 水、か?」 「ちっ、あのくせ者の婆のことだ、そんな薬を届けさせるはずはねぇと思ったがその通りだったな。お前さんには残念賞だな。必死こいて走ってきて、たとえ間に合ったとしても意味がなかったわけだ」  男は立ち上がると、寝ていた馬を起こし、その上に飛び乗った。  呆然とするタムトに向かって男は言った。 「結局、最初から希望なんて無かったんだ。スウスウは死ぬべくして死んだ。だが、呪い婆の思い通りには行かなかったな。なぁ、あんた! 村に戻ったら呪い婆に言っといてくれ。スウスウは最後まであんたを信じてたってな」  男は街に向かって馬を歩かせたが、すぐに振り向いて一言付け加えた。 「あと運び屋は、てめえみたいなクソ婆はとっととおっ死ねって言ってたってな!」  渓谷に阻まれたタムトは去りゆく男をただ見ているしかなかった。 【6.再びガラスの噴水(仮)】  賑やかな夜だった。昼間の酷暑を避けていた人々は涼しくなった街へ繰り出し、それを相手にする露天商の呼び声や大道芸人、流れの音楽家が雑多な音を巻き散らかし、街の喧騒を作っていた。誰の耳にも街外れの砂丘の向こうで起こった砂嵐の音は届かなかった。 活気付く街の中を、砂まみれになったメルビが虚ろな目つきで歩いていた。街の人々はそれぞれの目の前のものに夢中で誰もメルビの姿を見ていなかった。  メルビは宛ても無く街を歩き、自然とその中心に向かって近づいていた。そこにはぼんやりとした火を灯すガラスの噴水が依然として水を湛えていた。気が付くとさきほどスウスウと並んで見たときから一時間も経っていない。メルビはゆっくりと噴水に近づくとその水で顔を洗い、端に腰掛けた。  何も考えられなかった。ただ呆然と噴水の脇に座り、周りの喧噪を聞いていた。こいつらは知らない、メルビは思った。たった今、自分たちの命が小さな女の子のおかげで救われたことを。  メルビはずっとそこに座り続けていた。街から人が引き始め、いくつかの露天商は荷物を畳んで帰り支度をしている。街がもっとも静かになる夜と朝との境目が近づきつつあった。  人の気配がしてメルビが横を向くと、そこにはアルカが立っていた。不機嫌そうな顔をして髪の毛を赤いベールで乱暴にまとめていた。アルカはメルビの横に勢いよく腰を下ろした。 「ーーまた失敗したわ」  アルカはあごに手を当ててメルビのほうを見ずに言った。 「食事が終わるまでは良かったのよ。料理も美味しいし、相手は紳士で話しも上手い、何よりもお金を持ってそうだったからね、金払いも良さそうだったし出資者としては最適。だけど食事の最期でサービスのコーヒーをつい飲んじゃって――」  アルカは額に手を当てて黙り込んだ。メルビは特に感情の籠もっていない声で訊いた。 「またあの演説をやっちまったのか?」 「そう! 気がついたらテーブルに片足を載っけて手を振りあげて熱弁をしてた。アルジャーンさんの強ばった顔、周りのお客さんの退いた雰囲気、困ってるレストランのウェイター。うー、思い出したくないわ」  アルカは頭を抱えて下を向いた。 「そのあと思いっきりダンスを踊って何とか周りを煙に巻くことに成功したから、何とかなったわ。おかげであのレストランは出入り禁止になったけど」  アルカはそれから背筋を伸ばし長いため息を吐くと、気分を切り替えるように明るく言った。 「まぁ、私の話しは良いわ。スウスウちゃんはどうなったの? ちゃんと捕まえて連れ戻した?」 「スウスウは死んだよ」  メルビは無表情で静かに言った。アルカは黙ってしばらくメルビの顔を見ていたが、その言葉がたちの悪い冗談でないことを悟ると、メルビに訊いた。 「あれから何がどうなったか、始めから終わりまで全部話しなさい」  メルビは少し無言でいたが、訥々と街外れの砂丘の向こうで起こった出来事を説明した。アルカは話しが終わるまで無言でじっとメルビの顔を見つめていた。 「ふーん、そうかぁ…」  アルカはそれだけ言うと両手をゆっくりと前に伸ばし、空中で手を叩いた。メルビはその様子を訝しげに見ていたが、無言で手を叩き続けるアルカに痺れをきらして口を開いた。 「なぁアルカ、何をやっているんだ?」 「両手を打ち合わせることを拍手というのよ。知らなかった?」 「拍手? 今までの話しを聞いていなかったのか!」  メルビは思わず立ち上がり大声を出した。アルカはその様子に動じずじっとメルビの顔を見つめ返した。 「話しは全部聞いていた。聞いていたから拍手をしたのよ」 「まったくお前のやることなすこと全然わかんねえよ! 拍手ってのは目出度いときにやるもんだろ? スウスウが居なくなって嬉しいのか!? あぁ、確かに街は助かったよ。だけどスウスウは間違いなく死んだんだぞ!!」  アルカは激昂するメルビを諭すでもなく淡々と話しを続けた。 「誰かが死んだ、殺された、殺した。そんなことは私たちが子供のころは日常茶飯事だった。今でこそ星トカゲのみんなは大人になって自分の身を守ることが出来る力を持っているが、あの頃はひとりひとり野良犬同然、いつ死んでもおかしくなかった。あんたは幽霊団員だったからね、良く知らないだろうけど」  アルカは呟くように言うと静かに立ち上がった。そして動揺しているメルビをしっかりと見つめて言った。 「だからいつ、どうやって、何のために死ぬか、それが何よりも大事だってことを私たちは知ってるんだよ。団則1、止まるな踊れ。踊るとは生きることだ。決して踊ることを止めてはいけない。だがどうしても舞台を降りなきゃならなくなったら、せいぜい綺麗に幕引きをするべきだ。あの子は綺麗に踊りきった。星トカゲの団員にした甲斐があったよ、あの歳でそんなに綺麗に幕引きができるやつはそうはいないからね。  だから私はあの子の舞台の終幕に拍手を送ったのさ」  メルビは頭を振った。 「分からない、分からねえよ。俺はそんな風に割り切ることは出来ない・・・」 「それはぁ、おまえがぁ、踊ってないからだ!」  アルカはそれまでの静かな口調から一変して大声で言った。 「スウスウは綺麗に踊りきった! お前はどうだ? 私は前から知っていた、スウスウも気づいていた。お前はずっと前から舞台袖で引きこもってステージに出てきやしない! お前の話しだとスウスウも心配してたみたいじゃないか。あんな小さな子に、しかもすぐそこに死が迫っている子に心配されて恥ずかしくないのか?」  アルカはメルビの胸倉を掴んで引き寄せると燃えるような眼で睨み付けながら言った。 「お前はいつまで自分の過去を引きずるつもりだ!? いつまで死んだように生きるつもりだ? お前は今生きている、どんなに辛い過去があったとしても生きているんだ! 早く目を覚ませ、舞台の幕はいつ閉まるか分からない、あの子が死ぬ間際にきっかけをくれたんだ、今決めろ!」  掴まれていた胸倉を乱暴に押し返されてメルビはよろよろと尻餅をついた。 「生きるか死ぬか、踊るか踊らないのか?」  メルビは仁王立ちで腕を組んだアルカを見上げた。メルビは弱弱しく呟くように言った。 「生きるよ・・・。踊る、スウスウの分まで。だけど・・・」 「なんだぁ! はっきり言え!」 「俺は踊り方が分からないんだ。何をどうすれば良いのかまったく分からない。今までじっとしていたやつがいきなり踊りだすなんて出来るのかな・・・?」  アルカはニカっと豪快な笑顔を見せると、くるりと振り返り噴水近くで帰り支度をしている音楽家の方へ大股で歩いていった。古ぼけたシルクハットを被ったバイオリン弾きの肩を掴まえるといくらかの小銭を強引に懐に突っ込み演奏の依頼をした。 「なぁ、あんたの国のほうで二人で踊るやつがあるだろ? ゆっくりとした感じのやつ。それをやってくれ」  シルクハットのバイオリン弾きは慌てて頷くと楽器を肩に乗せ緩やかな曲を奏で出した。その曲を近くでしばらく聴いていたアルカは行ったときと同じようにくるりと振り返ると大股で尻餅をついたままのメルビのほうへ歩いてきた。 「私が自らダンスを教えるなんて滅多に無いことなんだぞ。ありがたく思えよ!」  それからアルカは芝居がかった仕草でお辞儀をし、片手をメルビに差し出すと低い声を作って言った。 「私と一曲付き合ってくれますかな、髭面のお嬢さん」  メルビは緊張した表情で頷くとアルカの手を取った。アルカはその手を掴み勢いよく引っ張りメルビを立たせると、腰に手を当て引き寄せた。もう片方の手は握り合ったまま横に突き出していた。 「良いか、私と同じように動くんだ。足を踏まないように注意してな」  すぐ目の前にアルカの顔が接近し、メルビは戸惑ったが何とか頷いた。  月が地平線近くに身を隠し日の出にはまだ時間のあるこの時間帯は、街がもっとも深い闇に包まれる。多くの商店は日の出からの厳しい暑さを避けて店仕舞いを始めている。それに合わせる様に街に繰り出す人も減り始め、噴水の周りの人もほとんど居なくなっていた。闇と静けさの広がる広場の中をバイオリンが奏でる緩やかなワルツが流れ、噴水の灯りが柔らかな光を辺りにもたらしていた。  そのなかを男女がワルツのリズムに合わせ、ゆっくりとステップを刻んでいた。男は多少頼りない身のこなしだが、女のしっかりとしたリードのおかげで辛うじてダンスを続けていた。 「うん! 予想以上に不器用だったけど何とかカタチにはなって来たわね」 「しょうがないだろ、初めて踊るんだぞ!」  アルカとメルビはダンスを続けながら言い合った。  二人のダンスはしばらく続いたが、空から降ってきたものに中断された。周りにパラパラという軽い音が広がり、小さな粒が落ちてくる。それはとても細かい砂だった。 「ねえ、これって・・・」 「たぶんそうだ。スウスウの砂嵐で巻き上がった砂が今頃落ちてきたんだろう」  二人は空を見上げながら言った。  朝日は一日の始まりを待ちかねて地平線から頭を出し、あっという間に地上に光の帯を広げた。暗闇の広がった噴水の広場には幾筋かの光が差し込み、それらは次第に繋がり広場を赤く染めた。 「ははあ! スウスウちゃんもなかなかやるじゃない!」  アルカは感心したように笑い声を上げた。  沢山の砂粒が街に降り注いでいた。それらは日の光を受け黄金色に輝き、街全体を煌びやかなベールに包んだように見せていた。街の住人たちは眠りにつき、その奇跡の光景を見ているものはほとんど居なかった。だがアルカとメルビ、そして幸運な大道芸人はその奇跡を目に焼き付けた。 「素敵なカーテンコールね。そろそろダンスのレッスンは終わりにしましょうか、髭面のお嬢さん?」  メルビは空を見上げながら言った。 「そうだな。だけど――」 「ん? 何よ」 「スウスウはこれで満足してくれたかな。こんな不器用なダンスで」  アルカはメルビの背中をよろけるぐらい勢いよく叩いた。 「一度ステージに上がったら、終わるまで続くのよ、ダンスってやつは! あんたはダンスを始めた。それを良い舞台にするか悪い舞台にするかは、これからのあんたの心がけひとつ。せっかくだからスウスウちゃんの見事なカーテンコールを見ときなさい」  メルビは朝日に照らし出された黄金色の雨を見つめていた。  いつまでも見つめていた。  一夜があけると、金色の砂はただの砂に変わっていた。街の住人たちは昨夜の光景を口々に噂したが、時が経つに連れ忘れ去られ、街に降った砂も風に運ばれ消え失せた。 【7.再び村(仮)】  タムトが村へ戻って一番最初にしたのは魔術師の老婆のテントに向かうことだった。タムトは憤怒の表情を隠すことなく肩を怒らせて村を進みテントまで歩いた。テントは村の一番奥に立っている。その場所を目にしたとき、タムトはテントの入り口に佇む小柄な人影を見つけた。 「村長! あの婆さんを庇うつもりですか? あの人がやったことを私は許せません」 「タムト、落ち着け」 「落ち着けだって!? あの人は最後まで私を騙してました。持っていった薬はただの水でしたよ」 「必死になって準備不足で砂漠を渡ろうとするお前の乾きを癒すためだろう。あの魔術を止めることは誰にもできなかったんじゃ」 「村長まで何を言ってるんですか!」 「死んだよ」 「とにかくそこを退いてください! ・・・村長、今なんと?」 「婆様は死んだ。おそらくスウスウが砂嵐になったのと同じ時間にな」  村長はあごをしゃくるとタムトをテントの中へ呼び込んだ。村長のあとをついてテントに入ったタムトには奥に横たわる老婆の姿が見えた。それを見た瞬間、タムトは笑いとも憤りともつかない気持ちに襲われた。 「はっ! 自分で好き勝手やって、孫みたいな歳の子供まで犠牲にして、自分はぽっくり行っちまうなんて・・・、無責任すぎらぁ!」  村長は老婆の遺体の傍らに座り、感情をむき出しにするタムトの様子を静かに見ていた。 「そこへ座れ、タムト」 「誰がこんなクソ婆の亡骸と一緒に居たいなんて思いますか! まったく自分だけ・・・」 「タムト。座れと言っておる」  タムトはびくりとした。村長の小さな身体から発したとは思えないほど迫力のある声だった。長年、一族を率いてきた族長としての誇りがその言葉に込められていた。タムトは不服そうにその言葉に従った。 「タムト、お前にはスウスウの最期を報告する義務がある。話せ」  タムトはしぶしぶ渓谷の男から聞いた話しを伝えた。村長は話しが終わるまで身じろぎもせず聞き、最期に質問した。 「それでオアシスの街は無事だったんだな?」 「・・・そうです。スウスウのおかげです」  村長は長いため息を吐いた。タムトには息と一緒に村長の身体が小さくなるような錯覚をおぼえた。 「最期はお前の思い通りには行かなかったようだな」  村長は老婆の亡骸に目を向けると話しかけるように言った。それからタムトに顔を向け背筋を伸ばして問いかけた。 「タムト、スウスウの背中に入れ墨が彫られたのはいつごろだと思う?」 「砂嵐の魔術には長い充電期間が必要ですから、おそらくスウスウを引き取ってすぐくらいでしょう。親を失ったばかりのスウスウを物のように扱ってそんな入れ墨を彫ったんだ!」  タムトは老婆の亡骸に怒りの視線を送った。村長はタムトの言葉を受けて続けた。 「そうだな。まだスウスウのことが分かっていないうちに彫ったんだ。それから何年もスウスウを育て続けていた。最近のスウスウとこいつはどんな関係に見えた?」 「祖母とその孫・・・、ですか?」 「そうじゃ、ただの物だと思って人一人を育て続けることはできない」  村長は老婆の腕を取ると袖を引き上げた。そこには小さな卍型の模様とそれを囲むように流れるような曲線の矢印が描かれていた。 「こいつは最期まで何も言わなかった。だがこれは砂嵐の魔術を自分へ移すための入れ墨じゃ。結局、婆さんの少ない命では移しきれなかったようだがな」  タムトはその腕の入れ墨を食い入るように見つめていたが、吹っ切るように頭を振って言った。 「だからこの婆さんを許せって言うんですか!? 後悔してたから許せと。こんなことで何も変わらない!」 「そうじゃな。だがスウスウは最期までこの婆さんを信じていたんじゃろ? それに対する答えにはなるんじゃないか?」  タムトは腕を組んで考え込んだ。その様子を見てため息を吐くと、村長は丁寧に老婆の腕を元に戻した。 「タムト、今日からお前が村長じゃ。それからスウスウのことはお前の胸に留めておけ。他の者に語ることはならん。その理由はお前が一番よく分かっておるな?」 「・・・反乱の意志があったと<渡来人>に知れたら我々を排除する口実を与えることになる。しかし部族を守ったスウスウは、このまま誰にもその勇敢な行動を知られぬまま忘れ去られることになってしまいます! それが本当に良いことなのか・・・」 「ならば、部族の長になる者にだけ語り継げばよい。どちらにしろお前が長となったからにはお前の意志ひとつだ」  老人は立ち上がり、タムトに向かって告げた。 「わしの村長としての最期の命令じゃ。そしてこの婆さんの遺言でもある。タムト、この遺体とテント、それに魔術の書物をすべて焼いて捨てろ。もう魔術が必要な時代ではない」  老人はよろよろとテントの外に歩み出た。タムトはそのあとを追い、老人の背中に向かって問いかけた。 「これからどうするつもりですか?」  老人は立ち止まり、少し振り返ると言った。 「わしはもう疲れた。その婆さんが死んでわしがこの村で一番の年寄りになってしまった。古い物語はもう終えるのが良いだろう。タムト、お前が新たな部族の物語を作り出せ。わしはもう退場する」  老人はそれだけ言うと自分のテントに向かって歩きだした。タムトはその後ろ姿を呆然と見送っていた。  それから数日の後、村の最長老は命を終えた。  新村長となったタムトはその後、荒れ地で暮らし続けることを選択した。<森の民>との話し合いをねばり強く続けていったが、もともと違う文化と伝統を持つ二つの部族が合意に達するのは時間がかかるものだと、タムトは思い知った。しかし話し合いの他には戦争しかない。タムトは交渉の困難さに直面するたびに思い出した。 「あの子は自分の身を犠牲にしても戦争を止めたかった」  二つの部族の交渉は延々と続く。簡単な解決はない。だが話し合いの間は平和が訪れた。タムトは一生掛けてもこの交渉をまとめる覚悟を決めた。  渓谷に流れる川は大砂嵐の吹き上げた土砂が降り積もったせいでせき止められていたが、数日のうちに自然のダムを乗り越えいつも通りに流れ始めた。その緩やかな流れが土砂をゆっくりと押し流した。スウスウがその身を変えた砂嵐の砂は川に飲み込まれ溶け込み、下流へゆっくりと移動していった。いくつもの谷を抜け、森を通り過ぎ、草原や荒野の脇を過ぎ去った。そして川の流れと一体となった砂は紺碧の海へ流れ込んだ。 【8.エピローグ】 「港ですか、親方?」 「そうだ。ここからなら2日だな」  運び屋事務所に出勤してきたメルビは戸口のところで親方に捕まり、次の仕事の説明を受けていた。戸口の外では今日も変わらず朝から刺すような日光が降り注いでいるのが伺える。 「そりゃ良いんですが、港方面は俺の担当じゃないですよ」 「喜べメルビ! とうとうお前を指名してくれるお客さんが現れたぞ」  わざとらしい親方の台詞と笑顔からメルビは嫌な予感を抱いた。数秒後、それは的中した。 「そうよ~、だからきっちりしっかり、いつもより5倍は張り切ってやってもらわないとアルカ姐さんも怒っちゃうわよ」  戸口からは陰になった奥のテーブルにはアルカが座っていた。メルビは苦々しい顔でそれに応えた。 「5倍張り切ったって5倍早くなるわけじゃないぞ。いつも通り、どんな荷物も皇帝の王冠のように大事に扱って、毎回日の出のように正確に期日通りに届ける、それが俺の仕事のやり方だ」 「なんでぇ、そりゃ俺の現役時代の売り文句じゃねえか」  親方は可笑しそうに鼻息を吹き出した。 「弟子ですからね、売り文句も受け継がせてもらいますよ」 「まぁ、せいぜい師匠に恥をかかせるなよ」  親方はそういうとメルビの頭に手を乗せて髪の毛をくしゃくしゃにした。メルビが子供の時から変わらず、その仕草は親方の照れ隠しだった  親方の手から逃れるとメルビはアルカの対面の席に座った。 「港に用事なんて珍しいじゃないか。何を俺は運べばいいんだ?」 「宝石よ! 今度開く宝石店の目玉商品が二日後に港に届くの。それを大至急確実に持ってきてもらいたいの」 「おいおい、宝石店を開くお金なんてどこに隠し持ってたんだよ・・・。まさかどっかからふんだくってきたんじゃ――」 「酷い言われようね、お客に対する態度がなってないんじゃないの? 今度ブッチゴの店で給仕でもやってみる? 私が直々に鍛え直してあげるわよ」  アルカは女将さんの出した飲み物をくいっと飲んで一息つくと説明を始めた。 「アルジャーンさん――って出資者なんだけど――前に一緒にディナーを食べたけどコーヒーを飲んで大暴れして大失敗って話しはしたっけ? てっきり私はあれで話しはお流れになったと思ってたんだけど、最近になって連絡が来てね、共同経営ってことで上流階級のご婦人方向けの宝石店をやらないかって。私の商売に掛ける情熱と野生的なパワーに魅せられたとか言ってたけど、単なるボンボンだけじゃなくてバカでもあったようね。ほんっとーに金持ちの考えることは分かんないわ~」 「それで店に並べるための宝石を運べってのか? 言っとくが宝石店一軒分の荷物なんて俺一人では運べないぞ。盗賊に狙われる可能性もあるしな」 「全部じゃないわよ、今度お店を開くお披露目ってことでアルジャーンさんがご婦人方を集めてくれるっていうから特別上等な宝石だけ先に取り寄せておいたのよ。大きさは小脇に一抱えぐらいかな。まぁ、こういうのって第一印象が大事じゃない? 最初に上等品をガツーンとかまして店のイメージを作らなきゃね! それに盗賊に関しては心配してないわ。この話しを知っているのは今のところ私とアルジャーンさんとあんただけ。親方には新しいコーヒー豆の取り寄せだって言ってあるから」 「なんとも手際の良いことで。そういうことなら俺一人のほうがむしろ安全かもな」  アルカはニカっと砂漠の太陽よりも明るい笑顔を見せた。 「じゃあ商談成立って事で良いわね? 期日は厳守! 頼むわよ」  アルカは立ち上がると親方の方に歩み寄り声を掛けた。 「そういうことでメルビに仕事の説明はしときましたから。代金は後払いでお願いしますね」 「お得意様のアルカさんの依頼だ、メルビが良いって言うんならこっちに文句はねえよ。新しいコーヒー豆が届いたら飲みに行くから教えてくれよ」 「コーヒー豆? あぁ、コーヒーですね、新しいコーヒー豆も良いですけどうちの店ではいつでも美味しいコーヒーを用意してますからいつでもいらっしゃってください! ではごきげんよう~」  アルカは慌てて運び屋事務所から飛び出ていった。その様子をメルビはため息を吐きつつ見ていた。 「やれやれ、本当にこの話しは他の奴に漏れてないんだろうな・・・」  メルビは一息つくとすぐに仕事の準備に取り掛かった。馬の様子を確認し十分に水と飼い葉を与えておく。自分の手荷物はいつものようにまとめてある。日数を計算し食料と水を準備する。  運び屋事務所から出発するときに親方から伝票を渡された。 「港には荷受所があるからな、伝票を渡せばあとはそこの奴らが荷物を探してくれる。送料は荷渡しのときに払い込み済みだと聞いているから金は必要ないぞ。港町はここ以上に大きなところだからな、迷子になって時間を無駄にすんじゃねえぞ」 「親方、子供じゃないんですからそこまで言わなくても分かりますよ。担当区域外だけど行ったことはありますし、大丈夫ですって」 「バカヤロウ! そうやって油断しているときに限ってヘマをしでかすもんなんだよ! 強盗にでも荷物を奪われたらどうする! まぁ、いくら珍しくてもコーヒー豆の一袋なんて狙う奴はいねえだろうがな」  そうとも限らないぞ、とメルビは密かに身を引き締めた。 「分かってますって。今までどおり、きっちりかっちり期日どおりに帰ってきますから」  メルビはそう言うと伝票を受け取り運び屋事務所を後にした。  気がつくとメルビは街の裏門を潜っていた。海側へ通じる表門とは正反対の方向だ。 「しまった・・・。ついいつものクセでこっちに来ちまった」  メルビは頭を掻いて呟いた。馬のメルビはいつものように眠そうな目でゆっくりと歩を進めている。 「まぁ、街をぐるりと回れば良いことだし、このまま進んじまうか?」  メルビは話しかけたが、勤勉な愛馬は無反応で砂丘に向かって歩み続けていた。  砂丘の頂上から見下ろす景色は、数ヶ月前の砂嵐から様変わりしていた。両岸をえぐり取られ、吹き飛ばされた吊り橋の代わりに、前よりも立派な橋が架かっている。馬車の二台はゆうゆうとすれ違えるほどの大きな橋だ。  橋を渡る必要はないが、メルビはなんとなく橋の袂まで近づいてみた。そこから谷底の川を覗いてみるが、あの夜に降った大量の砂の山はすでに押し流され、今までと変わらぬ水の流れがあるだけだった。 「別に何かを期待してたわけじゃなかったんだけどな・・・」  メルビは誰にともなく呟くと服の上から胸元に掛かっているペンダントを押さえた。ガジール石に細かい彫刻が施されたペンダントだ。それは彼女の、ペンダントだったものだ。  メルビと愛馬は川に沿って下流に向かうことにした。多少遠回りになるが、川は海に続いているので、街の表門の道とは最終的に合流することになる。メルビは、彼女の砂が流れた道を一緒に歩んでみたくなった。 「荷物はここで受け取れるって聞いたんだが、いいかな?」  メルビは港のほど近くにある建物の番台に座る男に声を掛けた。番台の男はメルビと同じぐらいの歳格好で愛想の良さそうな顔をしている。 「えぇ、こちらでは伝票を確認させていただければお荷物を持って参りますよ。小さい荷物でしたら倉庫番に取りにやらせますし、大きな物でしたら台車や荷車の貸し出しをやっております。まぁこちらは申し訳ありませんが、少々賃料をいただくことになりますが」  メルビは番台の男の身振り手振りを交えた説明を聞きながら、自分の無愛想さを全部裏返したらこんな男になるのではと考えた。 「いや荷物は小さい小包のはずなんだ。何でも新種のコーヒー豆だとか。そういうことなんでこの伝票の荷物を取ってきてもらえねえかな?」  番台の男は伝票を受け取りしばらく印を真剣な目つきで調べていたが、ぱっと笑顔に戻るとメルビに話しかけた。 「へい、しかと確かめさせていただきました! 倉庫番に取りに行かせますんで旦那はそちらのベンチにでも座ってお待ちください」  番台の男は後ろのほうを向くと誰かに伝票を渡し、何事かを申し付けていた。メルビは男の薦めの通りベンチに座って待つことにした。  ふいに港のほうから潮の香りが漂ってきて、メルビは気がついた。そう言えばまだ海を見ていない。途中までは川に沿って歩いてきたが、いくつもの川が合流し河幅が広くなったところで港町に向けて進路を変更していた。それは常に目的地との最短距離を通り荷物を届ける運び屋の習性だった。  ここまで来て海を見ていかないのはもったいない、とメルビは思った。それに彼女も海を見たがってたじゃないか。 「すいません旦那、ちょっと荷物が奥の方に仕舞われているみたいで持ってくるのに十分か二十分ぐらい掛かっちまいそうです。できるだけ急がせてますんでご勘弁を!」  番台の男はそう言って頭を下げた。 「いや、そんなに急ぎでもないから十分ぐらい平気だよ。それに旦那旦那ってのは止めてくれ、そんなふうに呼ばれたことないからこそばゆくってな」 「へい、するってぇと”アルカ”さんで良いんですかい?」 「なんだって? そうか伝票の宛名か。俺は運び屋だよ。アルカは今回の依頼人。なんなら別途運び屋依頼書も見せようか?」 「はは、何だか女っぽい名前なんでおかしいと思ったんですよ~。それで運び屋さんのお名前は?」  メルビは一瞬、彼女に初めて名前を聞かれたときのことを思い出した。すぐにその記憶を振り払い、番台の男に名を告げた。 「メルビ、運び屋のメルビだよ。オアシスの街では中堅クラスの運び屋だ、信用してもらって良いぜ」 「・・・・・・メルビ? オアシス街の運び屋の」  番台の男の返事は今までの陽気な声とは相反して深刻な響きを持っていた。メルビは振り返って男の顔を見た。さっきまでの笑顔が消え、驚いて声も出せないような強ばった表情に変わっていた。 「なあ、あんた、どうしたんだ・・・?」  番台の男は視線をメルビの顔に向け圧力を感じるほど強い視線を向けてきた。メルビは男の不躾な視線に怒りを感じ、しばらく無言のにらみ合いが続いた。そのにらみ合いは番台の裏側からのかけ声によって終了した。  番台の男はふと憑き物が落ちたように自分を取り戻すと番台の裏から小包を受け取った。そして顔をくしゃくしゃにして自分の無礼を謝った。 「メルビさん、本当に申し訳ない! ちょっと私には探し人がいましてね、その人の条件にメルビさんがちょっと当てはまって居たんで、ついついその人なんじゃないかと必死になってしまいました」 「・・・だとしても客に対してあのガン見はないぜ。正直気分が悪い」  番台の男は精一杯身を縮め床に額を擦り付けるようにして謝った。 「まぁそんなにしてくれなくても良いよ、どうせ俺は港町に来ることはほとんど無いんだしな。もう顔を合わすこともないだろうよ。さっさと荷物を渡してくれないか?」  番台の男はそれでも様々な謝罪の言葉のバリエーションを披露し続けたが、小包を差し出した。メルビはうんざりしながらその小包に手を伸ばした。手首の革製腕輪が使い込まれた皮の光沢を反射した。  その瞬間、メルビの腕輪を番台の男ががっちりと掴み無理矢理手首から外した。 「・・・やっぱりあんただ! メルビさん、あんただよ!」  番台の男は異様に目を光らせて大声で叫んだ。メルビは反射的に小包を引ったくると逃げ出した。何かまずいことに巻き込まれそうだ、そういうときは一秒でも早く逃げるに限る。  少し走って距離を取ってから後ろを振り返ってみると、番台から飛び出た男が屈強な倉庫番数人に興奮した様子で話しかけていた。それから番台の男はメルビのあとを追いかけて来たが屈強な倉庫番たちも同じぐらい必死の形相で追いかけてくる。 「どうなってんだ? 俺は何かのお尋ね者にでもなってたのか?」  そこでメルビはカラカラと軽い音を立てる小包に目をやった。 「ちきしょう! アルカのやつ、何が荷物の内容を知っているのは三人だけだよ! アルジャーンとか言う金持ち馬鹿野郎が情報を漏らしたんじゃねーのか? 宝石目当てならあの必死さも分かるってもんだ!」  慣れない街での鬼ごっこには限界がある。細い路地に入ったら最期、相手に地の利を利用されてジ・エンド、大通りの人混みに紛れるのがベターな作戦だが、メルビの追っ手は異様な執念で人混みもなぎ倒して進んでくる。メルビは自分が悪夢でも見ているような気分になってきた。 「それに、なんだか追っ手が増えてない!?」  番台の男、倉庫番のほかにコック服姿のものや八百屋の前掛けをしたものもいる。両手にナイフとフォークをもって首からナプキンを下げているのは食事中のやつか? どう見てもまともな連中には見えない。 「やばい、何だか分からないが捕まったら荷物だけじゃ済まなさそうだ・・・」  メルビは前を向いて全力で走り込んだ。  人混みをかき分けて先を必死に逃げていると、急に人混みがなくなり目の前に大きな空と入道雲が広がった。メルビの足は歩き慣れた砂の感触を掴まえた。砂の先には機織りのように緩やかに寄せては返す波間が広がっている。 「しまった! 砂浜に出ちまった!」  メルビは波打ち際まで進むと後ろを振り返って追っ手を確認した。人混みを押し出すようにして十数人の男たちが現れた。先頭は番台の男と倉庫番たちだ。屈強な倉庫番は平然としているが、番台の男は肩を上下させて荒い息を吐いている。  波打ち際のメルビを中心として半円型に男たちが周りを囲った。追いつめられたメルビは懐から小さなナイフを取り出して構えた。そのナイフは干し肉とチーズを切る以外に使ったことはなかったのだが。 「お、おい! いくら人数を使ったってこの程度でビビるような鍛え方はし、してねぇぜ! 運び屋の、プ、プライドに賭けて荷物を渡したりしねえからな!」  台詞は勇ましいが、声は震えたり裏返ったりと、どうにも頼りない。  周りを取り囲んだ人々はメルビの様子に戸惑うような表情を浮かべていたが、襲ってくるような気配はない。ただ周りを取り囲んでメルビの様子を値踏みするように見ている。 「ちょ、ちょっとメルビさん、落ち着いてください! 俺たちゃ強盗なんかじゃないんです」  正面の人垣を押し退けるようにして息を切らした番台係が現れ、言った。メルビは構えたナイフはそのままにしていたが、警戒する気持ちは段々と薄れていった。  番台係は深呼吸をして息を整えると、言った。 「メルビさん、ここにいる俺たちはみんな、あなたを探していたんです」 「・・・なんだって? 俺はお前たちなんて知らないぞ。人違いなんじゃないか?」  番台係は笑顔を浮かべて言った。 「いや人違いではないです。そのメルビさんの手首の傷がその証拠ですよ」  メルビは反射的に自分の手首の傷を隠した。 「別に隠さなくったって大丈夫ですよ。おいみんな、手首を出して見ろ!」  番台係は服の袖をまくり手首をメルビに突きだした。周りの人々もそれに倣って同じように手首を突き出す。その手首には、メルビほどではないが大小様々な古い傷跡が残っていた。 「メルビさん、分かりますか? 俺たちにとってあなたは救世主、ヒーローなんですよ!」  番台係が興奮した口調で言った。  メルビは意味が分からず、ナイフをふらふらと中途半端に振り回しながら返す言葉も無く突っ立っていた。  番台係は少し落ち着きを取り戻し、ゆっくりとした口調で説明を始めた。 「俺たちはみんな、鉱山の奴隷出身なんです。あるときにみんなで一斉に脱走したんだ。なあ!」  番台係は周りの人垣に向かって声を上げると、みな口々に応えた。  番台係は真剣な表情でメルビを見つめながら説明を続けた。 「あそこの鉱山現場は地獄だった。あとで分かったことですが、持ち主は大物ヤクザだし現場の人間も盗賊くずれみたいなクズばっかりだったんです。そんなやつらの下で俺たちはこき使われ働かされたんです。俺たちよりスコップやツルハシのほうが幸せだ、少なくとも手入れはしてくれますからね。俺たちは大物ヤクザが本業で邪魔になった人間たちだったんです。全く便利な方法を考えたもんだ! 危険な作業は俺たちにやらせて、病気やけがで働けなくなったら使い捨てです。補充の奴隷はすぐに補充されてきました」  番台係は愛嬌のある顔立ちに似合わぬ陰気な表情で話していた。周りの人間もその当時のことを思い出しているのか、下を向いて何かを耐えているような様子で立っていた。 「あそこには絶望しか無かった! 今日生きいていることは、いつか死ぬ日へ一歩近づいたってことでしかなかったんです」  メルビは涙を耐えて声を詰まらせている様子の番台係を見かねて声をかけた。 「オーケー分かった、鉱山現場が地獄だったっていうのは俺も同意見だ。それにあんたらが人違いをしているんじゃないようだってことも良く分かった。だが分からねえのは、今更俺を捜してこんなに大勢押し掛けて何のつもりなんだ?」  メルビは油断無くナイフを構え直し、警戒を解かずに問いかけた。 「だから! あなたが! 救世主だったんですよ!」  番台係は急に叫ぶように言った。メルビはちょっとびっくりしたが悟られないように誤摩化した。 「ある日の夜、奴隷の中から脱走に成功したものが出たってことは、すごく重要なことだったんです。俺たちにも出来るかもしれない、そうみんな思いました。そこから俺たちの秘密工作がちょっとずつ進んでいきました。お互いに連絡を取り合って脱出メンバーを集めて大勢で一緒に脱走する方法を考えました。ヤクザのやつらも警戒が強くなってましたから大変でしたが、何ヶ月もかけてチャンスを待って、ついにこのみんなで脱出を成功させたんです! これも全部、最初にメルビさんが希望を示してくれなければ始まらなかったことです。だから救世主だと言ったんですよ!」  メルビはようやく事情を把握したが、信じられない思いだった。ナイフを持った手はそれを振るう意思を無くしてぶらりと横に下がっていた。 「いや、なんというか、びっくりしたがだいたい事情が分かったよ。俺が脱走したあとはその日その日を生きるのに死にものぐるいだったから、あまりちゃんと思い返したことがなくてよ、お前らの顔も全部忘れていた。よく見れば、見覚えがあるような気がしないでも無いな。ただ救世主はちょっと褒められ過ぎでこそばゆいから止めてくれよ。ただのメルビで良い」  番台係はニッコリと笑顔を見せて言った。 「ではメルビさん、私たちの恩人たるあなたに皆からもお礼がしたいと思いますので、街に戻りましょう。仲間たちは食堂、酒屋に服飾店といろんな仕事についてますから、よりどりみどりですよ。それが終わったらちょっとこちらに付き合ってもらいたいことがあります・・・」  メルビは番台係の言葉に着いて行きかけたが、ふいに不信感を感じて足を止めた。 「ちょっと待ってくれ、お礼をしてくれるってんなら妥当だろうが過ぎた礼だろうが何でも遠慮なく頂くが、”終わったあとに付き合ってほしいことがある”ってのはどういうことだ? そういう言い回しは悪徳商人しか使わねえぜ」  番台係は少し困ったような顔をしたが、真剣な口調で話し始めた。 「実は、ここにいる皆でも一部の人間しか知らないのですが、私たちが奴隷として使われていた鉱山を支配していた大物ヤクザの身元を突き止めました。もうかなりの年寄りでヤクザは引退しています。だから命を取るのもそんなに難しいことではありません。仲間たち全員に参加してもらおうとは思いません。だけどメルビさんには参加してほしい。最初に反旗を翻したメルビさんに参加してもらってこそ、元奴隷たちの本当の復讐が完了すると思っています」  番台係の真っ直ぐな眼を確認して、メルビはため息をつき、思った。これは本物だな。 「嫌だね。そんなことお礼をいくらもらってもご免だ」  番台係は追いすがるように言った。 「どうしてですか!? あなただって恨みがあるでしょう! 復讐するってことは自分の過去に楔を打ち込むことです。これ以上忌まわしい記憶に振り回されないように楔を打って、”これにておしまい”にするってことですよ。あなただって忘れてはいないはずだ、あの頃の記憶を。それに苦しめられてもいるはずです。その引きずっているものを切り離すだけですよ」 「じゃあ聞くがな、そのヤクザの大親分を殺すことで本当に過去の嫌な記憶がなくなるって思ってるのか? お前らは今まで悪夢に飛び起きたり、腕の古傷が痛んだり、やり場の無い怒りを感じたことがあっただろう。今までずっとそうだったのが、人一人を殺しただけで和らぐか無くなるかすると、本当に思っているのか?」  メルビは周りの男たちを見回しながら言った。メルビの声に視線を外すもの、逆に反抗的に見返すものなど反応は様々だった。 「良いか、俺が脱走者の一番先輩だから教えてやる! 俺の、お前らの痛みは一生無くならない! 俺たちが子供の頃に上げられた舞台は酷いものだった。でも俺とお前らはそこから飛び出して別に舞台に上がった。俺は運び屋、お前は荷物倉庫の番台係、他にも魚屋や飯屋の舞台に上がったやつがいるみたいだな。  そこで踊れ、息つく暇無く踊り続けろ。前に上がった舞台のことはちらりとも思い出すな、踊りの邪魔になるようなことはすべて捨てちまえ! どんな舞台でも他ごとを考えながら踊り続けられるほど甘くはないぞ。お前らの舞台に”復讐”なんて演目は載せるな!」  メルビは唖然としている番台係に一瞥をくれると、人垣をかき分けて砂浜を歩き出した。  しばらくメルビは黙って波間に沿って砂浜を歩き続けた。しばらく経ってから振り返ると脱走者たちは所在無さげにさきほどと同じように砂浜に立ち尽くしていた。メルビは鼻をならして呟いた。 「せっかく堅気の人生を手に入れたんじゃねえか、簡単に手放すなよ」  それから怒ったように肩を振って歩いていたが、ふと立ち止まり胸元に手を入れガジール石のペンダントを取り出した。メルビはそれに話しかけるように呟いた。 「まったく、お前に比べるとどうしようもねえ連中だよな。これから奴らがどうするか分からねえし知りたくもないが、なんとか一つ、バカなことはしないようにお前が見張っててくんねえかな?」  メルビはガジール石をぐっと握りしめると、海に向かって腕を振りペンダントを放り投げた。ガジール石のペンダントはきらりと赤い光を反射すると小さな音を立てて波間に沈んでいった。  メルビは踵を返すと砂浜から町中に進んでいった。   「メルビさんはやっぱり優しい人なんだね」  それは確かに彼女の声だった。メルビは急いで振り返り波間に眼を凝らしたが、何者もその海には見つけられなかった。メルビは頭を振ると、愛馬メルビが止めてある馬小屋に向かって足を進めた。脇に抱えた荷物を期日通りに届けなければいけない。それが運び屋の、メルビの仕事であり舞台の演目だ。 【了】